一月も半ばの、ある晴れた午後。
三時のお茶にはまだ早い、そんな狭間の時間。
少女は温室の扉を開けた。
花々の間をゆっくりと歩んでいた女性が振り返る。
「――あら。いらっしゃいませ、三嶋さん」
榛葉邑那がそこにいた。午後の光を浴びたその髪は、さながら金色の滝のようだ。
「……っ」
一瞬眩暈を感じたのは、外と温室の温度差ゆえか。それとも眼前の光景ゆえか。
ただそこに居るだけで彼女はその閉じた空間全てを占有し支配する。
温室という王国の女王。ある人が彼女をそう呼んだという。三嶋鏡花は実感する――それは皮肉でも誇張でもないと。いや、彼女自身、前から薄々は気づいていた。
――この人は、此処に居ながらにして別の遠い場所にいる存在だと。
「……お邪魔ではなかったでしょうか?」
「――お客様はいつでも大歓迎ですよ。お茶でよろしかったですか?」
「頂きますわ」
ほそくしろいゆびが傾ける小さなポットから、琥珀色の紅茶が注がれていく。
辺りを見回すと、若干雰囲気が変わったような気がする。
以前はどことなく息苦しい感じを覚えることもあったこの空間が、今は……何と言うか、そう、暖かい。
「――花がいくつか変わったような気がしますが」
「そうですね。今お友達にいくつか世話をお任せしているので」
その人が持っている別の小型温室に移したものがあるという。
「冬はどうしても、維持が大変なものもありますし」
「整理しているということですの?」
「――そんなところでしょうか」
改めて、邑那の顔を見やる。穏かな微笑みを浮かべたその顔は変わらない。
「わたくし、卒業とともに、理事長の秘書として仕えることになりましたの」
「おめでとうございます。三嶋さんならきっと立派におやりになりますわ」
「――学院を去られると、お聞きしました」
一瞬、自分に茶を注ぐ彼女の手が止まったが。
「――暁先生ですか」
口調は平静なまま、そう答えた。返事を期待した言葉ではない。
漏れる場所はそこしかないと知っているが故の、確認。
「わたくしが鎌をかけました。先生が自分から話したわけではありません」
「……先生は責めませんよ。あの方の任務上、風祭に情報が流れるのは既定事項ですから」
自分の分をついで、ふわりと鏡花の前に座る。
「三嶋さんは何かわたしに、聞きたいことがあったのでしょうか?」
限りなく無表情に近い微笑み。
――相談はシンプルなものだった。
風祭の、後継者の一人の秘書となれば、綺麗な話ばかりを聞いているわけにはいかない。
あのあまりにも真っ直ぐすぎる理事長の耳に入る前に決済せねばならない事項も多かろう。
例えば、己の手を汚す作業。裏の、影の、闇に対処するための作業。
自分が、彼女たちが望もうと望むまいと。風祭の中で生きていくには。
自分たちの場所を手に入れるには、その全てを避けては通れない――否、そもそも対処法を知らなくては避けることすらできまい。
「理事長もリーダさんも、そうした作業に向いた方ではないと。三嶋さんはそうお考えなのですね」
「僭越ながら、そう思いますの。ならば、補佐すべき立場のものが……その、そういう部分に慣れておかねば、と思いまして」
「あなたが――それを引き受けると?頼りになる男性陣もいらっしゃるでしょうに」
「――わたしは、理事長と学友たちにこの身を救われました。既に気にかけるような係累もおりません。理事長とこの学院のためなら、全てを引き受けるのはわたくしであるべきだと思います」
一瞬、邑那の眼が眼鏡の奥で細められ――また普段どおりに戻る。
「三嶋さんの決意は理解しましたが――なぜ、わたしのところに?」
「榛葉さんと李燕玲が通ってきた過程において……何を考え、何を考えなかったのか。それをお聞きしたかったのですわ」
「……わたしたちの手が、どれだけ紅く染まっているかはご承知の上で、なお聞きたいと?」
「――ええ。だからこそ、ですわ。だからこそ」
いざその時。きっと自分は揺らいでしまう。今の自分では。
「自分は知っていなくてはならない――そう思いますの」
だから。それを乗り越えてきた人に、聞きたかった。
どうあるべきなのかを。どうあるべきでないのか、を。
「全てご存知の上で、そう仰るのですね――」
二杯目のお茶を二人に注いだ後。何かに納得したように一人頷くと、邑那はゆっくりと語り始めた。
鏡花に向き合いつつも、何処か遠くの一点を見つめながら。
それはまるで、過去の自分を覗き込むかのように。
「――井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る」
語句の異同はあれど、よく知られたそんな言葉がある。
人によってはそこから実に様々な意味を読み取る文章でもある。
「私たちは幼き日に、井戸の中にいながら大海を知る術を得ました」
陽道グループ。いや、蘆部源八郎と言う名の深く暗い井戸。
そして大海を泳ぐ術を与えた彼女の友、李燕玲。
「――ですが、その代わりに空を見上げる術を忘れてしまいました」
月日を経て体は大きく、力は強くなり。
「望めば得られる。そこまでたどり着く事はできました。ですが」
その眼も手も遠くまで届くようにはなったけれど。
「私たちは常に深淵の闇に怯えていました。犯してきた沢山の間違いの故に」
「手を染めた行為の故に、と?」
「やりかたがひとつだけでないことは勿論知っていました。でも、私たちに必要だったのは最善ではなく最強だったのです」
「――最強であること、ですか」
そうでなければ沈んでしまう浮島の王国を三嶋鏡花は想像してみる。
あるいは蛙。深淵でもがく手足を縛られた蛙が泳ぎ出すには――生き続けるためには、縛めを食いちぎるしかない。
「でも、間違いを反省はしますが後悔はしておりませんよ。
だからこそ生きてこれたのですから。でも――最近になって、思うのですよ」
もう遅過ぎるかもしれませんけどね、と邑那は微笑む。
「そのままであれば、私たちは例え大海に泳ぎだそうと、いかに巨大になろうとそれはやはり一匹の蛙にすぎなかったでしょう」
でも、と邑那は続ける。
「ある人が、わたしに空をもう一度見ることを教えてくれました。悔しいから本人には教えてあげませんけど、わたしは本当に感謝しているんですよ」
彼女は言葉を紡いでいく。何の影も束縛もない笑顔を浮かべつつ。
――ああ。彼女は、榛葉邑那は、こんな風にも笑える人なのか。
「わたしも貴方も、世界という巨大な井戸の中にいます。わたしたちの足掻きは、所詮水面に波を起こす程度にすぎません」
それでも。泳いで居なければ。わたしたちは沈んでしまうから。
空を見れなくなってしまうから。
とても、綺麗な。
「空を見ることを忘れなければ」
遥かに仰ぐ空を。
「わたしたちは――やっていけるのだと思います」
恥じることもなく。後悔もなく。……いや、違う、と三嶋鏡花は理解する。
恥じても。後悔しても。それでも。自分と、友と、大事なもののために。
――必要なのは足掻いて、足掻いて。それでも深淵ではなく、空を見続けることだと。
何のために行うのか。誰のために行うのか。
深淵と空は「何のため」でも「誰のため」でもありうる。状況によって変わる。
だけど大切なのは深淵ではなく、空を選ぶという――その意志。
邑那が管理室からファイルを持ってきてテーブルに置いた。
「これをお持ちになってください。データファイルも同封してあります」
「……開いてみてよろしいですか」
「どうぞ」
読み進めた鏡花は己の眼を疑う。その三冊の長大なファイルは。
風祭外部の敵に関する対処法。躱し方から排除と解体と吸収の手順まで。それも全て個別に。
グループ自体の脆弱性とそれに対する方策。付随するのは風祭財閥に内在する裏切り者のリスト。
その中にはあろうことか陽道と通じる者の名まであった。
そして最後に、理事長の家族兄妹に対する詳細な。詳細すぎるといっても良いデータ。
文字通り、風祭グループの死命を制しうるほどの秘匿資料だった。
「――なぜ、これをわたくしに?」
声が震える。
「いかなる武器も、いかに用いるかはその人間次第です」
王国の女王が。その数え切れないほどの過程の中で、常に考えてきたこと。
考えて、考え尽くして、尚無くすことの出来なかったこと。
だからこそ、けして言い訳をしないであろう所業の数々。
「わたしたちは今に至る過程で沢山の間違いを犯しました。全てを予測できたとしても、最終的に全てが思い通りになったことなど一度もありません。だからこそ、用い方には細心の注意が必要なのだと、常に肝に銘じています。出だしから間違っていては最後はもう大変ですね。最近も酷い目にあいました」
「バタフライ・エフェクトですか。最近も、とは?」
くすり、と邑那は笑う。ああそうか。鏡花は分かってしまった。
その話のときだけは、彼女はただの恋する娘に戻れるのだと。
「この春、最大の間違いを犯してしまいましたから」
分かってはいるけれど。それでも突っ込みを入れてみる。
「……参考までに、間違いの内容をお聞かせ願えませんかしら?」
「一人の迷える殿方に、お茶を振舞ってしまったことでしょうか」
もう既にオチが見えましたけども。
「それでは最大の成功も、今年迎えたのですわね?」
「――ご想像にお任せしますよ?」
なんかちょっと耳が赤くなってるし。こういう話にはまだ慣れていないのだろう。
それを言えば、鏡花だってそうなのだけれど。ちょっとだけ悔しい。
「……そうですわね。おのろけというのは長々と聞くものではなさそうですわ。
では最後にお尋ねします。もし風祭の利害とあなたの利害がぶつかることになったら?」
そうですね、と邑那は落ち着いて答える。
「そうならぬためにこそ、三嶋さんやわたしがいるのだと思っていますけど」
鏡花は唐突に気づく。そもそも、この資料を邑那が持っているという事自体、その気になれば、陽道を掌握した暁に彼女自身が風祭を破滅させることも可能ということ。
それをあえて鏡花に渡した意味を考えれば。
彼女自身にこそそれを、「風祭」と理事長たちを守る役割がゆだねられたのだということ。
密かなる同盟者。いや「話の分かる」敵として、三嶋鏡花が選ばれたのだと。
――大事なものならば守ってみせなさい、という挑戦にして教育。いわば試験。
だからこそ。ティカップをそっと置いて、彼女は。
「やむを得ず、そうなってしまったのなら」
迷い無く邑那は答える。そう。それこそが女王の矜持。
「――全力で、叩き潰します」
鏡花は頷く。ならばわたくしも応えよう、彼女の気持ちに。
「ではわたくしも、その時は同じ言葉を持ってお応えしましょう――その前に、まず全力で回避しますけど」
穏かに邑那は笑う。
「鏡花さんは、良い秘書になられると思いますよ」
呼び名が、鏡花に変わっていた。
「そうですね。良い学友に恵まれましたから」
「その中に、わたしも入れていただけるのでしょうか?」
「勿論ですわ、邑那さん」
「ふふ、光栄ですね。――もう一杯、如何ですか?」
下の名を呼んだことに、彼女は何も言わず微笑んだ。
――そして、緩やかに時間は流れる。
多分最初で最後の、彼女たちだけの時間。
「……そういえば、相沢さんから聞いたのですけど」
「なにか?」
と邑那は首をかしげる。
「試験用の貸し出しノートには、邑那さんは必ず嘘をいくつか混ぜておくのだとか」
「そんなこともあったかもしれないですね」
「ひょっとして、この資料も?」
「さあ、どうでしょう?」
にっこりと笑う邑那。
かなわない。
本当に、この人にはかなわない、と思わせられる――今のところは。でも、いつかは。
あなたのように。あなたが間違えたところを、間違わずにいられるような自分に。
あなたたちが手に入れたものを失わせずに、自分たちが失わずにいられるように。
あるいは同じように間違えて。それでも、あなたたちのように前を向いて。
迷いなく。あるいはずっと迷いながら。それでも前に進める自分たちであれるように。
――そうなりたい、と願う。この世界に。あの空に。
ふっ、と息をついて、鏡花も笑う。
「わたくしは丸写しは避けることにしますわ」
「それがよろしいかと」
それから二人とも。
今度は、同時に笑った。
それは、冬のとある一日の風景。
温室の窓からは、蒼く澄んだ冬の空。
遥かに仰ぎ、麗しの――
――空。
後年。
凰華女学院が「風祭の玉石」と呼ばれるようになったころ。
若く美しい小柄な理事長の傍には、常に二人の美女の姿があった。
一人は金髪碧眼の慈母のごとき侍女。
そしてもう一人は、美しき黒髪の秘書。
彼女は、味方からも敵からも等しくこう呼ばれたという。
「優しき魔女」――と。
「受け継がれるもの」end.