春の温室。冬と違っていくつかの窓は開かれたままだ。
心地よい風がたまに侵入してくる、そんな午後。
ちっく、ちっく、ちっく。
ストップウォッチが刻む時間。
「……ここか」
かちりと止め、同時にポットを取り上げる。
ティカップに注がれる琥珀色の流れ。
「――む」
まずまず。しかし。
「一味、足りない」
首をひねったところで、背後から呼ぶ声。
温室の扉が勢い良く開かれる。
「つ……いやいや花さん花さんっ!お茶していいよね入るよ入ったよっ!」
「やーちゃん声おっきすぎだよ……あー、いい香り!」
「うるさい」
そう言いつつも、声に拒否の響きはない。
声の主は大銀杏弥生と野原のばらだった。最近ではすっかり常連と化している。
「座れ。今淹れる」
もうすこし長めに。いや茶葉を多めに、か?それとも湯温か。
いずれにせよ微妙だ。
邑那は上達が早いと褒めてくれたが、まだ彼女には遠く及ばない。
ちょっとだけ凹む。
この二人はなんでも美味しいといってくれるので気は楽だが、テイスティングの人間としては全く役立たない。今のところは自分の舌と記憶が頼りだ。
大銀杏は激しく単位不足らしい。このままでは何年いることになるやら。
一方、野原は本当なら去年卒業できたのだが、わざと単位を落としたらしい。
本人いわく「もー少しダラダラしたかったからねっ」らしいが大銀杏のためなのかどうかは分からない。
いずれにせよ、それは彼女たちの物語だった。
「美味しいー!ねぇねぇほらこれクッキー食べよ食べよ!かなっぺが送ってくれたんだよもう我慢できなくてさぁ途中で結構食べちゃったけどさほら」
「さすが新婚さんだよねー。ほら花さんも食べないとやーちゃんが全部食べちゃうよ」
「……頂こう」
クッキーは美味しかった。無論、一番食べたのが誰かはいうまでもない。
いいだけ騒いで二人が去った後。
自分が眼を向けた空は常より澄みきって高く、眩しく見えた。
――自分には、無縁の空。
邑那がそうだったように、あの二人も最初から翼を持っている。
今は飛べないと思っているだけだ。
きっかけさえあれば、彼女らは何時でも空へ羽ばたける。
だがこの自分には、まがい物の翼しかない。
アテナの使いであった金属の梟のように。
……あの探検の終わりの日。最後のピクニックの日。
ちょっとだけ嬉しくて、そして楽しかった。
少しだけ、自分を縛る鎖が緩んだような気がした。
でも多分、今も何も変わってはいない。
ここにはアテナは居ない。ヘルメスの魔法も無い。
自分は、けして飛べない。
花もお茶も只の時間つぶしに過ぎない。
これまでも無数の商品や趣味に手を出し、その全てに飽きた。
これもその内きっと飽きるだろう。
あの迷宮の、軍需施設の真の意味。半島に無数に散らばる施設が示すもの。
支配者たる風祭すら忘れてしまったその意味は。
あの地図を良く見直せば、それが一つの図形を示していたことに気づいたろう。
だが、気づく可能性のあった連中は今回全て卒業した。
それは彼女らにとってむしろ幸せなことだろう。
構築された図形。それはあるものを繋ぎとめる封印。
何に対する?決まっている。
――それは課せられたものか、あるいは自ら課したものか。
千年の倦怠と憂鬱。祝福と同時に呪いでもある停滞した時間。
誰が知ろう。戦後の凰華女学院が、そもそも「自分」を閉じ込めるためにこそ作られたのだと。
それは存在してはならない逸脱者。なれど滅ぼすこともかなわぬ禁忌。
故にこの地に封じられた王にして囚、神にして贄。
此処は自分の最後の領土。揺りかごにして墓場。
此処で生まれ、なれど死ぬことを許されず。生きていながら、生きていないままで。
永く遠く。忘れて、忘れられて。
だから自分は――そっと呟く。
「誰か私を……殺してくれ」
「んー、なんか物騒だな。自殺志願はよくないぞ?」
「――っ!」
いつの間にか来客が一人。あまり、いや極めて歓迎したくない男。
「……お前か」
「教師をお前呼ばわりはないだろう。ちなみに自殺幇助は断るぞ」
「誰も何もお前に頼んでいない。迷子教師」
名前は以前聞いたような気もするが覚えていない。
去年もこんな男がいた。鬱陶しいくせに優しくて、だらしないくせに真摯で。
大したことも出来ないくせに、その愚直な誠実さだけで友人の心を掴んだ男。
何処が似ているというわけではない。
強いて言えば鬱陶しい所が似ているとしか。
「迷子は一回だけじゃないか。そりゃ君に案内してもらったのは悪かったけどな」
「うるさい黙れ」
何故自分はこんな男を寮まで案内してしまったのだろう。
そのまま森に埋めるか海に沈めるべきではなかったか。
あの時はよっぽど暇だったに違いない。きっとそうだ気の迷いだ。
「悩みがあるのか?なんだったら僕に相談してみないか」
無造作にこんなことが言える男。一般論の王国の住人。
百人中九十九人は生温く溶けた脳の持ち主だろう。そうでなければ只の馬鹿だ。
「断る。茶を飲みに来たのでなければ帰れ」
追い返すのは簡単だが仮にも教師、そこまで冷たく当たるのも躊躇われる。
昔に比べたらこの一年で自分も丸くなったかもしれない。
独り言を聞かれたのも正直落ち着かないが動揺を悟られたくは無かった。
「お茶、もらえるかい?」
「……練習台で良ければ」
「それで結構」
非常に荒っぽい淹れ方になったにもかかわらず不思議と出来は良かった。
なんとなく悔しい。
「ありがとうお花ちゃん。美味しいよ」
茶を噴きそうになった。誰だその手鞠をついてそうな子供は?
「――何だと?」
「花さんって呼ばれてるって聞いたから。だからお花ちゃん」
「却下する」
「じゃあ花子さんで」
「うるさい黙れ帰れ馬鹿」
トイレやロッカーに居住する趣味はない。
「非道い子だなあお花ちゃん」
「鋏で×××を切られるかジェット一輪車に括られるか即刻選べ」
「すいません生まれてすいませんごめんなさい」
などと軽口を叩きつつ、茶をずずーと行儀悪くすする迷子教師。
飲んだらとっとと帰って欲しかったのだが一向に懲りていないらしい。
こちらの苛々など知らぬふりで話を戻してきた。
「――で、何を悩んでいたんだ?」
触れるな鬱陶しい。本当に鬱陶しい……にも関わらず。
結局ちゃんと答えてしまうのは何故だろう。解らない。
「……飛べない鳥に、ついて」
「鳥ねえ……飛べない鳥というと鶏とか駝鳥とか」
「駝鳥は走れるから除外していい」
ふうん?と教師はこっちを不思議そうに見る。
「速く走れるなら、逃げることはできる」
逃げるという言葉に、教師は一瞬こちらの目を見た後、頷いて答えた。
「逃げる、ね……鶏が飛べないのは育種の末体が重くなったからだろう。余分な肉がなければ、鶏だって飛べるさ。逃げることだって多分」
彼女たちは飛べる。でも。
「では、それが鳥を模しただけのまがい物だったら?」
偽者は、所詮飛べない。
生きていないものは――飛べない。
だが、教師は呟く。
「――それがどんな物か僕は知らないが、飛行機だって人工の翼だろ?」
だけど飛んでいる。ならば。
「なら、まがい物の鳥だって、飛べないことはないだろうさ」
――真っ直ぐな、真っ直ぐすぎて。当たり前すぎて。
その言葉は、痛い。
「――何が、わかる」
平静を装う自分の声はわずかに低く震えている。
そんな自分自身が痛い。
話すべきでないような事を、喋ってしまっている。
「お前は、何も知らないだけだ」
何も、誰も。自分のことは知らない。知るべきではないから。
「確かに。僕に解っているのは一つだけだ」
「…………」
「僕は、まだお花ちゃんのことを何も知らないってことだ」
「……正しい理解だ」
ああ。続く言葉が解ってしまう。この男は。
「だから、もっと君の事を知りたいと思う」
この教師は――馬鹿だ。何故、踏み込もうとする?
「好奇心猫を殺す。教師なら意味ぐらい知っているだろう」
「それでも、だ」
「……何故だ?無意味なのに」
「無意味じゃないさ。何故かと聞かれれば」
そうだな、と教師は照れくさそうに笑った。
「お花ちゃんが、聞かれる事を望んでいるように見えたから、かな」
――この男は。百人中の九十九人ではない。
無論、千人中の九百九十九人でもない。
千人に一人の、大馬鹿のほうらしい。
「――本当の馬鹿だお前は」
ここで自分が馬鹿め思い込みにも程がある、と切り捨てれば。
恐らくそれで終わった話。
「んー。良くそう言われるかな」
だけど、自分は会話に付き合ってしまう。
馬鹿が感染してしまったかのように……いや、違う。
この男だから、話してしまう。
「何も知らない癖に」
だのに何でも知っているような物言いをする、この男は。
「何でもは知らない。知っていることだけさ、お花ちゃん」
「お前は、食わせ者だ」
付け加えれば多分ロクでなしで教師失格でエロ教師だ。
あとお花ちゃんって言うな。
「かもな」
男の顔をもう一度見る。一応真剣に見えなくも無い。
十人並の普通人。ただの新人教師。鬱陶しい男。
だけど。この男を見ていると。話していると。
――誰かが言っていた。
いつか貴方が、本当に誰かを好きになったら、その時には。
きっと貴方の心も、自由になれるわ――
……自由。ほどけていく、心。
そんなことが、他人はどうあれ、自分に有ると思った事は無かった。
そんな可能性は知らなかった。
いや――今までは、知ろうとすらしていなかったのかもしれない。
「――迷子教師」
「なんだ?お花ちゃん」
「お前の名前は?」
「×××だけど何かなお花ちゃん」
殴る。
割と本気で。
「痛え!教師をグーで殴るか!」
「……二度とお花ちゃんと呼ぶな。今度呼んだらチェーンソーで三枚に下ろす」
奴はこっちをじっと見て、にこりと笑った。
「じゃ、僕は君を何て呼べばいいんだ?」
嫌な奴だ大馬鹿だ。本当に気に入らない。
こんなものは、魔法なんかじゃない。
だけど。
すう、と息を吸い込む。
いつもの、これまでの繰り返し、かもしれない。
いずれこの男にも自分は飽きて。
新たに知ることなど、もはや無いのかもしれない。
それでも、胸の奥のこの感情を信じてみるのも。
悪くは――ない。
「私の名前は――――」
手の中のストップウォッチは止まったまま。
けれど、彼女はもう止まってはいない。
ゆっくりと柔らかな風にのって、時間は流れ出す。
それはうららかな春の日の午後。
――新しい物語の、第一話。
「通販さんと春の午後」end.