遥かに仰ぎ、麗しの 二次創作SS

「Fly Me」



Fly Me


  そしていつか僕は君を

  想い想い続けているよ  

  愛してます 大好きです

  きっときっと 夢じゃないよね

         ――つじあやの「月が泣いてる」


 気づいたときは、いつだって遅すぎる。

 自分は、昔からそうだった。

 ……鷹月の名に何の意味も無くなってしまえば、私は鷹月殿子でいられる。

 そう気づいたとき、すでにそれを話し合うべき父母は会話出来る状態ではなかった。

 いや、父母がそうなったからこそ、自分はそれに気づいたといって良い。

 あくまで偶然の産物。だがそれゆえにこそ、残酷なまでに自身を再認識させられた。

 自分に与えられた罪と罰。

 正確に言えば、それは罪ではない。そもそも誰のせいでもない。

 だが限りなく罪に近く苦いものと、殿子は認識している。

 思えば皮肉なものだった。 二人が元気で話していた時は親と思えたことなど無かったのに、こうなって初めて、父母を愛しいと思えるなんて。

 不本意、と駄々をこねる暇もなく委ねられた力。

 殿子はそれを、自分と父母を守るためだけに使った。 今までのモラトリアムは一体何だったのか、と周辺に思わせたほどの電光石火の早業だった。

 グループ全体の舵取りは重役の取締役会にゆだね、同族経営から半ば強引に脱却させた。

 当然、親戚一同からはブーイングの嵐だったが、父母が所有していた実権をあらかた手放すことで、 いまだ寝たきりの二人の一生を保つ資産と、殿子自身の自由は保持することが出来た。

 今も最高の治療を受けているとはいえ、今後、父母が快癒することは二度と無いかもしれない。

 しかし、少なくともそれを背負うのは自分の役目だと殿子は思っていた。

 治療とリハビリ、双方の設備が整ったアメリカの病院。

 父母を連れて行こうと思ったのは、親戚一同の干渉を避けるためでもある。

 競争を降りた存在として忘れ去られること。殿子はそれしか望まない。

 約一年学院に残った結果として、殿子自身はMITに迎えてもらえることになったので、生きていくのに支障はない。

 司に勧められて取り組んでみた数学の世界で、好きなように泳げる自分を発見できたから。

 だから、学院を冬のうちに去るのには――何も問題はない、筈だった。


  さようなら手を振って

  また歩き出せる

  悲しみは穏やかに

  冬の空に澄み渡ってゆく


「……決めたのか」

「うん。週末の便で向こうに行く」

 殿子の話は突然だったが、司にはどことなく予感があった。

 大事なことを決断するとき、彼女は常に一人で決めてきたから。

「卒業式まで、待っても良かったろうに」

「みやびが知ったら、騒がしくなりそうだから、今のうち」

「盛大に送り出してやりたいけどなあ、僕は。理事長や梓乃もそうだと思うけど」

 今日は一月の外出日。梓乃は祖父母のところに行っていた。

 彼女に反対されるのを見越して、居ないときに来たのだろうか、と司は思った。

「嬉しいけど、もう父母が向こうの病院に居るし」

「……そうか。それなら金曜にでも、内輪だけで」

「うん。ありがとう」

「いつでも、僕は殿子の家族だからな」

 その言葉に、殿子の表情がわずかに変わった。

「――家族」

「ああ……どうした、殿子?」

「私は、いつから司をお父さん、って呼ばなくなったんだろう」

 声のトーンが一段低くなったのに、司も気づく。

「殿子?」

 ゆっくりと、ひび割れていく、その声は。

「いつから、私は気づいてたんだろう」

「気づくって……何を?」

「いつから……私と司をただ見ていたころの梓乃の気持ちが解るようになったんだろう」

「……殿子」

「私には確かに父母がいて。そんなことに今更気づいて。 そんな娘だから……自分の嘘に気づくにも、丸一年かかって」

「お前は……僕は」

「いいの、司。返事はいらない。私はとっくに、理解していたんだから。 だけど、それでも。私があの時求めた家族は、貴方だけだったから」

 そう。理解している。だのに何故、自分はこんな血を吐くような声で。

「だから、今だけ。もう一度だけ、いい?」

 こんなに声を振り絞って、感情を高ぶらせて。


「……おとうさん」


 そう彼を呼んで、顔を伏せたまま胸の中に飛び込んできた殿子を。

 何も言えずに、司はただ抱きしめた。


 ――そう。気づいたときは、いつだって遅すぎるのだ。

 一年遅れで、気づいてしまったこの感情は。

 もう、どこにも連れて行けないのだから。


 顔を司の胸に埋めたまま、殿子は低い声でゆっくりと、彼女が言うべき事を伝えた。

「今、私が貴方の近くにいると、梓乃の心を乱すと思う。余計な負担を彼女に与えたくない」

「そんなことがあるもんか」

「理性で解っていても、感情が思うままにならないのは、貴方たちはさんざん味わってきたと思う」

「だが――だからって」

「納得してくれると嬉しい。司と梓乃の親友でいるために、私が選んだことだから」

 背中にまわされた殿子の手は、わずかに震えていたけど。

 でも、だからこそその言葉は、司には重くて。

「……殿子が、選んだ、か」

 今まで、選ぶ事を拒否してきた彼女が。前に進むために。

「そう。私の意思で」

 ならば、今の司にできるのは、もう一つだけ。

 ただもっと強く、抱きしめてやることだけだった。

 ややあって、司はふう、と長く息をついて、何とか言葉を搾り出す。

「なら……おとうさんとしては、可愛い娘の意思を尊重するべきだろうな」

「……ありがとう、おとうさん」

 まだ震える声で礼を言ったあと。殿子は自分から離れた。

 そして顔を上げてもう一度、今度ははっきりと、笑顔で告げた。

「ありがとう、司」

 その目はわずかに赤かったけれど。

 ――涙は、無かった。


  愛しい人 切ない人

  心まで奪っておくれ

  夜を過ぎて 朝になっても

  月が泣いてる


 当初予想していたより、梓乃の反応は落ち着いていた。

「殿子が来てたよ。週末、向こうに行くそうだ」

「……知っておりました。昨日、電話がありましたから」

「え?じゃあ今日はわざと外出してたのか?」

「ええ。たとえ何があってもわたくしは、今日だけは何も知らないふりをするつもりでした」

「何があっても、って……」

 何が起きると思ってたんだこの子は。

「でも、殿ちゃんは最後まで殿ちゃんだったようですね」

「ああ。無論、何もやましいことなど無かったぞ」

 じとり、と梓乃は司を横目で見る。

「本当に?殿ちゃんの思いをいいことに、貴方から何か破廉恥な行為をしませんでした?」

「お前、それはあまりにも婚約者を信じてないんじゃないか……?」

 くすり、と梓乃は小さく笑う。

「ええ。殿ちゃんほどには、まだ」

「……まあ、今日はともかく、前に頬にキスしたことはあったけど……ってちょっと待て!その縄はなんだ!」

「裏切り者不埒者変質者!貴方なんか大っ嫌いです!」

 いきなり顔に縦線の入った梓乃はひゅん、と縄を司の首に引っ掛けるとそのまま締め上げる。

「待て絞めるなあれはあくまで親子のっスキンシップの一環っ……きゅう」

 呼吸が怪しくなってきた司の首から縄をさっと解くと、梓乃は大きな溜息をついた。

「……はあ、判ってますよ、あなた。そんなことより」

 司がそちらに向き直ると、彼女の眼にはもう涙が浮かんでいた。

「殿ちゃんは、やっぱり行ってしまうのですね。わたくし……わたくしは……」

「……みんな、自分の道を選ぶときがくる。梓乃が去年の春だったなら、殿子は今だった。そういうことだろ」

「殿ちゃんの判断はいつだって正しいですわ。……ですけど、ですけどっ!」

「……梓乃」

「解っていたってっ!この感情を抑えられるわけが……ないじゃないですかっ……!」

 司の胸で、彼女は泣きじゃくった。

「うわああああああんっ……」

「……僕らは笑って、殿子を送り出してやろう。なに、またすぐ会えるさ」

 梓乃をぎゅっ、と抱きしめながら、司もまた、泣けてきそうだった。

 別れたときの殿子の顔を思い出しながら、司は心の中で呟く。

 ――殿子、お前はいつだって、強くあろうとしすぎるよ。

 あんなときですら、お前は泣かないんだから。

 お前も、泣きたい時には、泣いていいんだぞ――


  優しい人 可愛い人

  心から笑っておくれ

  雨が降って 風が吹いても

  恋に落ちてく


 見送りは予想通りの愁嘆場だったけれど。

 際限なく泣いている梓乃をなだめているうちに、殿子はかえって冷静になってしまった。

 駆けつけたみやびや鏡花たちと握手を交し、最後にもう一度梓乃を抱きしめてから、微笑んで別れを告げる。

 なんとか上手くやれた、と思った。

 それでも結局、司を真正面から見るのは避けてしまった。

 彼の眼が、確かに潤んでいたのに気づいてしまったから。

 ここで眼を合わせてしまったら、冷静でいられる自信は無かった。

 だから、痛くなるほど手を振って、二人がもう見えない場所まで来たとき、初めて立ち止まって、一度だけ下を向いて、長い息をついた。

 どこかに、ほっとしている自分がいた。

 わずかな間、そうしていた後。

 殿子は顔を上げて、後を振り向かず搭乗口に向かう。

 自分は、大丈夫。このまま、歩き出せる。

 その瞬間は、確かにそう思っていた――否、思おうとしていた。


 ――夜の機内は静まり返っていた。

 窓の外では、月明かりが流れる雲の海を照らしている。

 周りの乗客はほとんどが眠っていたが、殿子は目が冴えてしまっていた。

 気分転換に音楽のチャンネルを変えてみると。

「あ……」

 ヘッドホンから聴こえてきたのは、耳慣れた曲だった。

 柔らかに耳へと流れ込んでくる、その歌は。


 ――「Fly me to the moon」。


 Poets often use many words to say a simple thing.

 (簡単なことを伝えるために、詩人はたくさんの言葉を使う)

 It takes thought and time and rhyme to make a poem sing.

 (そして詩を囁くために熟考して、時間をかけ音を紡ぐ)

 With music and words I've been playing.

 (音楽と言葉で私は詩を奏でよう)

 For you I have written a song

 (貴方のために私は一曲の歌を書いた)

 To be sure that you'll know what I'm saying,

 (私が言いたいことを解ってくれると信じている)

 I'll translate as I go along.

 (歌いながら想いを伝えて行こう)


 殿子は流れる曲に合わせ、そっと歌を紡ぎ囁く。


 Fly me to the moon

 (ねぇ 私を月へ連れてって)

 And let me play among the stars

 (星々の間で歌わせて)

 Let me see what spring is like on Jupiter and Mars

 (木星や火星の春がどんな様子か私に見せて)

 In other words, hold my hand

 (私の手をつないで欲しいから)

 In other words, darling kiss me

 (私にキスして欲しいから)


 歌ううちに、彼女は自分の声が震えていることに気づいて。


 Fill my heart with song

 (私の心を歌でいっぱいにして)

 And let me sing for ever more

 (ずっと ずっと歌わせて)

 You are all I long for

 (貴方は私が想い焦がれていた全て)

 All I worship and adore

 (尊敬と賞賛の全てを捧げられるのは貴方だけ)


 そして、彼女は。


 In other words, please be true

 (私にとっての真実でいて欲しいから)


 最後のセンテンスだけは、日本語で呟いた。


 In other words, I love you

 (私は貴方を――愛しているから)


「貴方を――愛していました」


 いつの間にか、涙が溢れていた。

 流れる涙を拭うこともせず、殿子は声を殺して泣いた。


  そしていつも、私は貴方を。

  想い続けていました。

  愛していました。

  大好きでした。

  それはきっと。

  夢じゃなかったよね。


 静かに、ただ一人で耐えて。

 彼女は、顔を伏せたまま嗚咽し続けた。


 やがて。

 泣き疲れた彼女は思う。

 もう、眠ろう。

 殿子を月に連れて行くのは

 彼女自身なのだから。

 だから、今は。今だけは。

 彼の記憶を抱いて眠ろう。

 そして、次に眼を覚ましたとき。

 この涙は、夢の中に置いて行こう。

 現実の自分が前を向いて、歩き出せるように。

 次に二人に会ったとき、心から笑えるように。

 ――眠る。


 少女は、夜を翔ける翼に抱かれて眠る。


 月はただ優しく、彼女を照らす。


 それは彼女が次に目覚めるまでの、わずかな時間だけど。


 彼女がみている夢もまた、優しいものでありますようにと。


 月が、まるで彼女のために願っているような。


 ――そんな、やわらかな光。


                  「Fly Me」end.