花の蕾を
おさへるやうに
私は おまへの
掌を おさへる
とぢられた おまへの
瞼は かすかにふるへてゐる
――私はなにをきいてゐる?
陽はどこかの空でねむった
ここは せまい
《邂逅》
――それは、冬の始めのある晴れた日の出来事。
鹿野上渉は、その少女を踏んだ。
「きゃんっ?」
「……やあ。これは失礼」
とりあえず、そう言うしかない状況ではあった。
元はと言えば、時間潰しに川の流れでも眺めていこうか、と思っただけのことだったのだが。
学園の中を流れる小川の土手。一度刈り揃えられた後でまた伸びてきたらしき草の中。彼が無造作に足を踏み入れたのは確かだったが、この凰華女学院の生徒に、まさか土手で寝転がっているお嬢さまが居ようとは当然ながら思いもしていなかったわけで。
「ひっ……?だっ……だれ?」
で、その踏んだ相手は今、眼を見開いて見事に硬直している。
「ああ、すみません。驚かせてしまったようですね」
「……ぅぅぅ」
もごもご呻く彼女にとりあえず謝りつつ、渉は踏んだ対象を観察してみた。
すでに冬服。首もとには制服の上にスカーフを巻いている。どうやらそれが枕の代わりにもなっていたようだ。草が付いて後で大変ではないのかと思ったが、少女はどうやら細部の身だしなみにはあまり頓着していないようだった。制服の着こなしも、何処が足りないとか変だということはないのだが、何故か微妙に崩れて写る。
全体の印象もそうだった。細い三つ編みはいかにも野暮ったい印象で派手さとは無縁だが、顔は贔屓目無しでもまあ可愛い部類に入るだろうに、どこか制服と同様にアンバランス。身体は年頃の少女なのに、上目遣いでこちらを見返す表情は何処か幼くひ弱くて、渉の視線を受け止めるだけで溶けて消えてしまいそうなほど怯えて見える。
「ふっ……ふ、けい、の、かた、でしょうかっ……」
「え?……いや、元父兄と言うべきでしょうかね?温室に住んでいる方に用があったのですが、後で来いと追い返されたもので」
「……花さんの、関係者っ、でっ、ですか……?」
おっかなびっくり、言葉をぽつぽつと搾り出す少女。一向に緊張が解ける様子はない。どうやら、自分が――と言うより、恐らくは男性全般が恐怖の対象なのだろうと見受けられた。
「まあ、そんなところですね。ここでお茶の時間まで時間を潰すつもりだったのですが、貴方の場所とは知らず失礼致しました」
無論、渉は正確には温室の彼女の関係者とは言い難い。今日彼が来たのはあくまで総帥の代理としてだ。自分は「花さん」にはいささか嫌われている……と言うよりほぼ無視されているのだが、にもかかわらず自分を敢えて送った総帥の意図は不明だった。
とはいえ、それは如才ない総帥のこと。大方、これも自分に課された試験の一環なのだろう。渉が「花さん」が不快に思うような行動を取れば、すぐさま総帥のもとに報告が行くような。
今回、実際に言われた命令は一つだけである。
「彼女のお茶を飲んで、感想を思ったまま告げていらっしゃいな」
何かを試されているのは無論理解できるが、それではどういう結果を求められているのか?と問われればそれは解らない。まあ、「花さん」と総帥の友情は彼もそれなりに把握しているつもりなので、恐らく二人の間で何らかのゲームが行われているのだろう、という程度の予測はつく。 自分はそのネタというわけだ。――別に不快ではない。渉にそういった意味での負の感情は無い。
最近の総帥は、たまに年相応に悪戯っぽい顔をするようになった……とは思う。それが李燕玲の望む方向への変化なのか、あるいは、彼女たちの傍らに立つ新人秘書の存在がもたらした変化なのか。渉はその答えを知っていたが、他者に語る類の事柄でないこともまた同時に理解していた。
では、この少女についてはどうか。渉は何らかの答えを見出せるだろうか?
――気がつけば、彼女は渉の顔をじっと、穴が開きそうなほどまじまじと見ている。
「……何か、私の顔についていますか?」
「……っ!……い、いえ……」
渉が気づいたとたん目を伏せて縮こまる。……どうも、中々難儀な娘さんのようだ、と渉は認識した。箱入りが過ぎる、というより男性と関わること自体を恐れているように映る。
「……立てますか?」
とりあえず助け起こそうと、手を差し出してみた。
「あ……あっ……その……は……はぃぃ……」
おそるおそる、本当にゆっくりと彼女は手を上げる。おっかなびっくり。疑惑と恐怖を顔に貼り付けたまま。彼女はおずおずびくびく手を伸ばし――渉の手を、握る。
(その骨は陶器のようで。その手はちょっと力を込めた瞬間、砕けてしまいそうで)
(その肉はあくまでも薄くて。その体温は外気以上に冷たくて)
そして――渉の手を、握った瞬間。
「……あ……れ?」
恐らくは、握り締めた感触を認識した、その時。
彼女の顔がさあっ、と青ざめた。
「あ……あっ……」
そうして、彼女は――ふいっ、と。そのまま気を失った。くたり、と手から体全体から力が抜けるのを感じて、さすがに渉も呆然となる。
「……え?」
気絶して突っ伏した少女の手を離すわけにもいかず――とりあえずそっと握ったまま、渉は考える。
「……さて。どうしたものでしょうかね?」
で、結局。
実務に関して極めて有能な、この学院のメイド長に頼ることにした。まあ、餅は餅屋というし、何より彼自身、気絶した女性の扱いに慣れているとは言い難かったので。
彼女を引き取りに来た金髪のメイド長に、何故か驚いた様子は無かった。
「よくあることですから」と、いうことらしい。
――その時の渉は、単純にそんなものか、と思っていた。
《温室》
「……ということがあったのですが」
「うるさい黙れ」
「……」
「……一応釘を刺しておくと、ずっと黙っていろと言う意味ではない」
「てっきりそういう意味かと思いました」
「紅茶を淹れているときは話しかけるな、と言う意味だ。大体、黙ったままでは用も足せまい」
「感想を伝えて来い、との仰せでしたので。今は大人しくお茶を待っていますよ」
「……ふん」
ややあって、とん、とわずかに高い音とともにカップが置かれると、茶が滔々と注がれる。
澄んだ黄金の流れから心地の良い香気が立ち昇った。
「……よろしいので?」
「とっとと飲め」
「では、頂きますよ……おや」
拍子抜けするほど――と言っては失礼だが、普通に美味しい。実の所、渉は総帥の紅茶を飲んだ事はまだ無いのだが、少なくとも渉が今までに飲んだどの紅茶よりも美味しく感じる……というと言いすぎか?いや。あの孤児院で幼い頃飲んだお茶と同じくらいには、と言うべきか。
無論、茶葉はこちらのほうがずっと良いものを使っているのだろうが。
「感想を言ってみろ」
渉の表情をじっと見ていた彼女は無表情に言葉を促す。
「……正直に伝えて来い、といわれましたので。失礼に当たったら申し訳ないのですがね」
「お前の世辞など期待していない。思ったとおり言え」
とのことだったので、そのままの感想を告げた。熱さ、香り、苦さ、甘さ、その他諸々。
「……ふむ」
彼女は冷静に聞いていた。恐らく的外れな意見もあっただろうに、怒った様子は特に無い。
「お気に召さない答えだったのなら申し訳ないですが」
「……むしろ、驚いたと言うべきだろうな。大抵の場合、記憶に現実は勝てないものだが」
「……美味しかったですよ。本当に」
そもそも自分の記憶など、現実と照らし合わせてさほど価値のあるものではない、と渉は思う。とはいえ、それでも孤児院での日々は、記憶が今なお残っているという事実だけでも、自分にとって大事なものには違いなかった。良くも悪くも、今の渉を規定したものがそこに在る。
とはいえ、それは今飲んでいる茶の美味しさを褪せさせるほどでは無かった。
過去は過去。それだけのことだ。
「信じてもらえないかもしれませんが、私は素直に美味しいと思いました。総帥のお茶は頂いたことがないので、比較してどうかと聞かれると困りますがね」
「邑那がお前に淹れたいと思わなければ、どの道お前にとってそれは美味い茶ではない。人に茶を淹れるとはそういうものだ」
「成程。では、少なくとも貴方は私にお茶を淹れたいと思って頂けた訳ですか。光栄ですね」
「こんな私用でも、果たせなくてはお前も困るだろう。それに、美味い不味いをはっきり言ってくれる人間は少ない。ここは少数を除いて失敗しても美味いという人間ばかりだ」
「しかし、それは彼女らの善意でしょう?」
「人を貶める善意もあれば、人に貢献する悪意もある」
と、彼女は自分で淹れた茶をすすりながら、眼鏡の向こうから渉を鋭い眼光で射抜く。
何を言われるのか、と思ったら、出てきたのは意外な言葉だった。
「溝呂木を踏んだそうだな」
「みぞろぎ?……ああ、あの子のことですか。お耳が早いですね」
「ここは狭い。情報は直ぐに届く……が、さて。同情するとすれば、誰にかな」
「……何のことです?」
「犬を踏めば噛まれる。地雷を踏めば死ねる」
「……何かの例えですか?」
「私は最近、馬鹿を踏んだ。馬鹿を踏むと付きまとわれる」
嫌々、という表情を作る彼女の口調は、しかしどこか明るく弾んでいた。
ほう、と渉は意外に思う。最近、彼女の元を頻繁に訪れる新人教師が居るらしい、という噂は彼も耳にしていたが。
「……そう言いながらも嬉しそうに見えますが」
「うるさい黙れ。まあ、馬鹿を踏んでも死ぬことは無いが――」
ふん、と鼻を鳴らしつつ、彼女はあくまで表情は冷静なまま、渉に告げた。
「お前は噛まれるか、死ぬか……それ以外か、だ。もう、踏まなかったという選択肢は、無い」
《痕跡》
少女のことは、リーダ女史に任せておけば大丈夫だと思っていた。
だから、温室を辞した後、そのリーダに呼ばれたときはさすがに渉も首を捻った。
面会室の前で、彼女は深々と頭を渉に下げる。
「今日は色々とお手をわずらわせまして、申し訳ありませんでした」
「こちらこそ。それで、ご用件は?」
「はい。鹿野上様に彼女――溝呂木輝陽が、一言お詫びしたいとのことで」
成程と思ったが、何故かリーダは少し戸惑っている様子だ。
「私は一向に構いませんが――何か問題が?」
「問題と言うわけではございません。ただ――彼女が殿方に自分から会いたがるのは非常に珍しいので」
初見での印象通り、基本的に男性が非常に苦手な子らしい。
「今までは、こういう状態になるとしばらく部屋から出てこなかったのですが――何か心境の変化があったのかもしれませんね?」
と、リーダは何処か悪戯っぽい視線を渉に送るが、正直彼には全く心当りが無い訳で。
(強いて言えば、手を握った――あの時か?)
とは言え、いずれにせよ断る理由もない。面会室に入った渉を迎えたのは、正面のだだっ広いソファの真ん中に所在無げに座る三つ編みの少女だった。
「あ……」
「ああ、いいですよそのままで。――その顔色だと、体調はもうだいぶ良いようですね」
と言ってはみたものの、実の所彼女の顔色は変わらず青いままだった訳だが。それは言っても詮無い事だろう。とりあえず、正面に座って話を聞いてみることにする。
「溝呂木さん――でしたか。今回は本当に失礼致しました。正直、気を失われるほど驚かれていたとは思いもしていませんでしたが……今は大丈夫のようで、私もほっとしました」
「……す、すみません……こちら、こそ、お恥ずかしい、ところを」
渉の一言ごとにびくん、と硬直しながら彼女はひたすらぺこぺこ頭を下げる。
「いえいえ、元はと言えば貴方を踏んだ私が悪いのですから、どうか気になさらず」
「……は、はい……」
沈黙。そのまま互いに見合ったまま一分経過。
(……これはいけませんね)
どこかで話を切らないと、際限無く時間がかかりそうだ。
「……ええと……それでは、私はこれで」
そう言って、渉が席を立とうとした瞬間。
「あっ……あのっ!」
突然彼女はがばっと顔を上げた。なにやら物凄く必死な顔で渉を見つめ――それから、彼女は。一言一言を搾り出すように、彼に告げる。
「私の、手を……もう一度……握って、くれませんか?」
「……いいですよ」
彼女は渉が再び伸ばしたその手を、最初おずおずと、だがしかし、今度は気を失うことなく、そっと握り締めて――そして、はあ、と一つ長い息をついて――呟いた。
「……ああ。やっぱり……そうなんだ」
それから。あくまで必死な顔のまま、しかし先程までとは微妙に異なる決意を瞳に湛えて。
――溝呂木輝陽は、鹿野上渉に頭を下げて、告げた。
「お願いします。……私を、ここから、連れ出して……くれませんか」
そう言って顔を伏せた彼女の首筋――最初会った時はスカーフと三つ編みで隠れていたそこに、青黒い痣を渉は見出す。頸の両側に刻まれた、その形は。
それはまるで、誰かの手が、その頸を絞めた痕のようで――
――とりあえず、その場で返事が出来ることではなかったので、リーダと改めて相談する。
「非常に珍しい例ですが、彼女は自らお金を払って分校に来た生徒です。両親の遺産管財人はおりますが、裁量権も彼女が持っています」
だから正確には連れ出す、と言うより、彼女が自分の意思で渉について行きたいと考えている、という意味に取ったほうが適切なようだ。しかし。
「何故彼女はそのような事を?」
あの男性を恐れる性格に関連しているのだろうかと渉は思ったが、リーダの答えは意外なものだった。
「溝呂木は母の旧姓で、彼女の元の姓は○○といいます。ご両親は陽道グループの関係者でした」
渉はその姓に聞き覚えがあった。
「……あの事件の、被害者でしたか」
それは四年前の出来事。それは陽道の内部で地歩を固めるために彼がこなした、数え切れない汚れ仕事の一つ。その結果として起きた悲劇。
陽道グループが吸収しリストラしたとある企業。リストラの過程で倒産を余儀なくされた子会社の若社長がいた。債務者に追われる日々の中で彼の妻は心労に倒れ――あっさりと死んだ。
彼女のお腹にいた子供とともに。
若社長の怒りは、企業資産を私物化した上、その保全を条件に陽道に企業を安値で売り渡した親会社の社長に向かい――その結果、社長夫妻、すなわち溝呂木輝陽の両親は惨殺され、一人娘だった輝陽自身も拉致されて三日の間暴行を受け続けた。そして三日目、警察が踏み込んだときには犯人は首を吊って自殺しており、その前には彼女が放心したまま裸で横たわっていた――と、当時の報告書にある。
当然ながらマスコミの報道は憐憫と嘲弄と下世話な好奇心の坩堝であり、心に深刻な傷を負ったとされる少女は「自主的に」大部分の遺産を寄付した後、世間から姿を消した。
渉自身の仕事は、それなりの価値を生む企業を一つ、交渉して買い叩いたことだけ。事件そのものに直接の責任は無い――とも言えよう。企業を、そしてその社員を売ったのはあくまで彼等自身が贖うべき咎だ。そう、所詮はよくある悲劇のひとつに過ぎない。
しかし――何故か自分でも不思議なほど迷い無く、渉はリーダに告げていた。
「それが、過去の陽道グループが行った事の結果であるのなら――私に出来るだけのことはさせて頂きたいと考えます」
何故、そう答えてしまったのか。渉は溝呂木輝陽の黒く、暝い瞳を思い出す。
(あの瞳を見てしまったから?それとも、握った手のせいでしょうかね?)
あるいは、それもまたちょっとした気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。
とりあえず、その時渉が考えていたのは。
(――さて。総帥に、何といって報告したものでしょうか)
それだけだった。
私をささへて 黒い花があった
私は それを 摘みとった
秘密な白い液の重い滴りが
茎の色を 蒼ざめさせた
《対話》
「お元気ですか?」
「それなりに。あの男からもう報告は行ったか」
「ええ。貴方にも良いことがあったようで、私も嬉しく思っていますよ」
「……暇つぶしに、馬鹿を時々踏んでみている。それだけのことだ」
「ふふ――そういうことにしておきましょうか」
「……また来させるつもりなら、邑那の茶を飲ませてからにしろ」
「あらあら。まだお兄様には飲みたいと言われたことが無いんですよ」
「あの男がそんなこと言える玉か。大体、勝負は公平でないと面白くない」
「はいはい、解りましたよ――ところで、花の鉢が一つ、温室から無くなったそうですね」
「あの男が持っていった。咲かせるか枯れさせるか、見物だな」
「――そうですね」
「……お前、これも織り込み済だったのか?」
「まさか。偶然ですよ?」
「……どうだかな。つき通すほどの嘘ではないと思うが」
「――今の所は、偶然と言っておきます。上手くいくようであれば、その時には織り込み済と言い換えますわ。その方が魔女にはふさわしいでしょう?」
「ずっと、魔女の仮面を被って往くつもりか?」
「……嘘の仮面も、十年以上被り続ければ、皮膚の一部になりますからね」
「……今のお前には滝沢がいる。仮面の中の顔も、たまには日に当ててやれ」
「……有難う。その言葉、彼も聞いたら嬉しがると思いますよ」
「奴の礼など要らん。次はイェンをよこせ。ベトナムコーヒーの面白いのが入ったので実験したい」
「あらあらあら……ふふ、では、そう伝えておきますよ」
そして通話を終えた後――榛葉邑那は虚空に独白する。
「……お兄様。貴方は、往く途を自ら選ぶつもりが、おありになりますか?」
それは渉への言葉というより、むしろ彼女自身への問いであるかのようで。
「それとも――これからも、何も選ばずに往かれますか?」
彼女はそっと眼を閉じて――呟く。
私の眼ざしは 枯れはじめた
私の饒舌は 息切れはじめた
黄昏は あちらの方で 一日を
心にもなく美しく化粧する と 私にはおもはれた
《耽溺》
蘆部厳八郎が憎かったかと問われれば、憎かった、と答えるだろう。
しかし、それは果たして真実だろうか?あるいは父や一族が憎かったかと問われれば。邑那が憎かったかと、燕玲が憎かったかと問われればどうだろうか。
実際の所、何時でもそれらはどうでもいい事だった。憎しみは目的ではなく、それは自分を機械として動かすための手段であり技術だった。機械は誰も憎まず、誰を愛することもない――そう、いつも、自分という機械の中身は空っぽな虚だった。
だからこそ、何でも入れることができた。
善行も悪行も、偽の愛情も偽の憎悪も。命じられれば、如何なる所業でも。
そんな自分が、今何をしているのかと思う。
「んっ……」
脆い壊れ物のように輝陽を抱きながら、渉は過去の記憶を辿る。
そもそも、何故か最初の夜から、彼女はいつのまにか渉のベッドの中で眠っていた。幸せそうでもなく、かといって苦しそうでもなく、ただ人形のように眠っていた。
起こす気にもなれず、とりあえずその日渉はソファで眠った。
次の日。同じようにベッドに横たわる彼女を確かめて、渉が寝室を出て行こうとした、その時――そっと、背広の裾を掴まれた。
「……何でしょうか」
「い、一緒に……ねっ……寝て下さいっ……でっ……だっ……抱いて……下さい」
前半はまだしも、後半は明らかにルール違反だ。渉はネクタイを緩めて嘆息する。
「……貴方は、ご自分で言っている事の意味が判っていますか?」
「は……はいっ……」
渉が言葉を返すたびにびくびく震えつつも、彼女は言葉を必死に絞りだす。
「……こんな草臥れた男に抱かれてかまわない、と?」
「はいっ……でっ……でないとっ……だっ……駄目、なんです」
「……何が、です?」
「これは……私にとって……必要な、事っ……なん……です」
不思議な言い分だった。代償でも取引でもなく、ただそれが必要だと言う彼女。その思考回路は理解し難いが、何か必死なことだけは理解できた。
「しかし、そんなつもりで自分は貴方を引き取ったわけでは――」
そう言いかけて、渉は口をつぐむ。
本当は、最初から解っていたのではないか。否、最初に彼女の手を取った時から既に渉は――望んでいたのではないか?
「……不思議ですね」
――結局、渉は裾を掴む彼女の手をそっと取る。
「……?」
まだ怯えつつも、渉を訝しげに見上げる輝陽の眼。捨てられた子犬のように、あるいは魂の抜けた人形のようにも見えるその瞳。
(犬か地雷か――もう、踏まなかったという選択肢は無い)
一瞬、温室の彼女の言葉が頭をよぎったが、それもすぐに消えて。
「貴方にとって、そして私にとって必要な事ならば――応じましょう」
そう告げて渉はゆっくりと、彼女の上に被さっていった。
――そして、今。
「必要な事、なんです」
輝陽は、常にそういって渉に抱かれる。何故、それが必要なのかは一切説明しないまま、渉におずおずと奉仕し、肌を重ねた。渉がどう触れてもどう扱っても、一切抵抗しなかった――人形のように。
「……あっ」
抱いている最中、彼女は殆ど声を上げない。感じているのが苦痛か快感なのか、それすらも判然としない。ただ渉の動くままに動き、肌を合わせ、たまに喘ぎ、吐息をつく。粘膜の滑りと,分泌される汗と体液だけが、互いの感情を間接的に伝える。
そもそも、渉自身は女性に不自由していたわけではない。元々そちら方面の欲望は薄いほうだったし、望めば後腐れなく抱ける商売女はいくらでも見つかる。そんな渉が、一人の少女を性の対象として囲っているのは、正直彼自身奇妙だと感じざるを得ない。
輝陽はほとんど渉の住むマンションから外出しようとしないので、今の所外聞を気にする事態にはなっていないが、マスコミや陽道の敵対勢力に知られればこれは間違いなくスキャンダルだった。なのに、この状態に総帥が何も言ってこないのも奇妙といえば奇妙ではある。
総帥・蘆部邑那=榛葉邑那の支配する新生・陽道グループの中枢近くに居るとはいえ、彼自身の立場は実際の所総帥と燕玲の道具であるに過ぎない。それに不満は無かったが、かと言って無論渉は総帥を崇拝しているわけでもない。昔から彼にはその類の狂信は皆無だった。単に自分以上に有能であり、総帥に相応しいから従っているだけの事である。
総帥に人を支配するに足る器が有り、自分に提供できる能力がある以上は、自由意志のない器の中身として生きることに不満は無かった。自由意志があろうと無かろうと、結局殆どの人間は何かの道具であることでしか生きられないのだから。
そんな立場にある彼にとって、輝陽の存在を許していること自体が危険な気まぐれと言って良かった。スキャンダルに発展すれば、総帥が渉を道具として不適格とすることはまず間違いない。
(――あるいは総帥が、自分をスキャンダルで排除するためにわざと輝陽を送り込んだのでは)
当初はそういう仮定も浮かんだが直ぐ捨てた。道具としての自分は主観的にも客観的にも有能と分類される筈であり、少なくともグループが再編途上にある現在、総帥と燕玲が自分を切り捨てる理由は無かった。それ以外の仮想敵については、例えば風祭がハニートラップを仕掛けた可能性も絶無ではないものの、理事長たちと本家との関係についての情報からは、それもまず有り得ないと見て良かった。
だから、これは只の気まぐれの結果であり、総帥が何も言わないのも、裏の無い気まぐれの産物と認識しているからこそなのかもしれない――あるいは何か別の計算があるのか。
総帥という器から、渉という酒が数滴毀れた――そう、今の所はその程度の話。酒の味がそれで変わるわけではない。無論、渉自身もそう認識していた。
その筈だったのに。
(私は。この壊れかけの少女に――溺れている。毀れた酒に、自分自身で酔ってしまっている)
渉は思う。彼女を、あそこから連れ出して良かったのだろうか、と。例えゲストと化したとしても、外の空気、あるいは人々の視線。それに晒されるほうが彼女には苦痛なのではないか、と。あそこの方がまだ彼女の理解者は多かったのではないか、と。だから彼女は渉の部屋から出ようとしないのではないかと。
――そう、日中、彼女はほとんど外に出ない。たまにベランダか屋上で日を浴びる、それだけで満足しているように見える。高層階のため、ベランダでも他者の視線に晒されることなく日光浴が出来るのは気に入ったようだ。
向日葵のように彼女は日を浴びる。その時だけは、名前のままに彼女は飢えたように日光を欲する。しかし、それ以外は消して外に出ようとしない。
しかしそれでも、彼女は常に学院に戻る事を拒否し続けて。
日々は過ぎ――そしてまた夜が来る。
《公園》
とある公園。すでに木々の葉は舞い落ち、冬の匂いがする。
「やーセンセセンセ久し振りっ!」
「お久し振りです、滝沢先生」
久し振りに訪れた場所でちょっとした感傷に浸っていた滝沢司は、聞き慣れた声の方向に顔を向けた。
「相沢、仁礼、元気だったか」
「もっちろーん!」
「滝沢先生もお変わりなく」
相沢美綺の元気さは相変わらずだった。陽道グループのイベントで何度か顔を合わせてはいたが、そもそも司一人で出歩くこと自体最近は無いので、こうして話をする機会は本当に久しぶりだった。仁礼とも学院を出てからは美綺と一緒の時しか会ったことが無い。
「ふふ、邑那さんに内緒でこんな可愛い姉妹とデートだなんてねっ。知られたら家庭争議必至!」
「生憎家庭は円満そのものだし、今日もきちんと断ってきているぞ」
もっとも、携帯のGPSでしっかり監視は受けてるけどな。
「単独行動も息抜きには大切ですから、二人と楽しんできて下さいな」
一応そう言ってはくれたけど。でも邑那はニコニコしてる時の方が怖いんだよなあ、と司は思う。
「ワンボの部下が事前に周りチェックしてるから余計な横槍は入らないよっ。ちなみにセンセが狼と化したときの対策もスタンガンでばっちり!」
「おっお姉さま!妻子ある滝沢先生にそのような失礼な発言をっ」
「いやさすがにまだ子供はいないが……つか、スタンガン使うのもやめてくれ」
「……で、センセが聞きたいのは輝陽のことでしょ?」
「ああ。君たちなら、彼女の行動の意味が判るかと思ってね」
「鹿野上さんのところにねえ……うにゃー」
「鹿野上さんは、仁礼の一族には一貫して良くしてくれました。正直、今でも邑那さんとの間にそんな暗闘があったとは信じられません。ですが――」
「あのね、センセ……正直言って、輝陽は邑那さんより難しい子だよ?邑那さんは外の世界を求めてたけどさ、あの子は世界に何も求めてない。あの子の時間は、凰華に来る前に止まっちゃってるんだよ」
「……だが、そうすると何故渉さんの所に行こうと思ったのかな?勿論、渉さんの性格は僕にも未だに掴めないし、単純に溝呂木が惹かれた可能性もゼロじゃないけど」
自ら望んで引きこもったはずの彼女は、渉の何処に惹かれたというのだろうか?
「判りませんが……でも、大丈夫だと思いますよ。鹿野上さんは、少なくとも私たちのような弱い立場の人間にとっては良い人でしたから――輝陽さんにも、多分優しくしてくれると思います」
「すみすみ……」
美綺は妹の観点を修正しようかと思ったが、敢えて口をつぐむ。確かに、仁礼の一族に対して鹿野上渉は一貫して支援者であり続けた。例えそれが打算からの行為だったとしても事実に変わりはないし、栖香が真っ直ぐなゆえに先入観を頑として変えないのも今に始まったことではない。
でも今回については、それが本当であれば良いな、と美綺は思う。
「そうだね。鹿野上さんなら、輝陽とでもうまくやれるかも」
それからしばらく互いの近況を話した後、栖香は家の用事があるとかで一足先に帰った。
「相沢、一緒に帰っても良かったんだぞ?」
「ひどーい。センセはアタシじゃなくてすみすみが目当てだったんだっ!」
「そんな訳あるかっ。とは言え、せっかく姉妹水入らずの時間なのに付きあわせて悪かったな」
「んー、アタシはいいんだ。すみすみがセンセに会って普通に話せただけで。それに、可愛い妹には聞かせたくない話もまだ色々あるしね」
「……まだ、仁礼にはわだかまりがあるのかな」
「センセには多分、何もないよ。でも、燕玲さんとかには、さすがにまだちょっと、ね」
後、邑那自身が燕玲と一体であったという事実は、今は仁礼家にとってなんの問題も無くなったとはいえ、過去の経緯を考えるとやはり簡単に洗い流せる記憶でもないのだろう。
「時間が解決してくれるといいな……僕が言うべき事ではないんだろうが」
「大丈夫。すみすみもそのうち燕玲さんのいいとこに気づいてくれるよ!邑那さんのことは元々嫌いなわけじゃないしねっ。ま、それはそれとして輝陽のことは頼んだよっ」
そう言われてもなあ、と司は思う。溝呂木輝陽の授業の時の印象は正直非常に薄かったし、渉の心の中は司にはよく解らない。いや、正確には敢えて解りたくないと言ったほうがいいのかもしれない――彼は、なっていたかもしれないもうひとりの自分だから。
虚ろな中身を埋めるものを若い時に、あるいは司が邑那に出会った時のように、得ることが出来なかったとしたら。自分も彼のようになっていておかしくないのだから。過去も、これからも。
だから――と、司は自分の感情の揺れを隠して美綺に答える。
「まあ――渉さんと溝呂木が、互いに互いの必要なものを与えられることを祈ろうじゃないか」
それは文字通り、彼らが互いの心の中の虚ろを埋める行為、なのかもしれない。
「うにゃー……そだね。必要なのは、新しい建物を建てることより、まず、地面にぽっかり開いた穴を埋めることなのかも」
「ああ、そうだ。地盤がしっかりしてないと、何を立てたってすぐ崩れちゃうからな」
「じゃあ、あの二人が、耐震基準以上の建物を立てられるように、あたしも祈ってるよっ」
「……そうだな」
「頼むよセンセ。じゃ、アタシもこれで……って、ああ、一つ渉さんに伝えといてもらえるかなっ」
「何だ?」
「あの子の言葉は、信じちゃ駄目だよ、って。でも、あの子の心は信じてあげてねって、相沢の娘が言ってたってさっ」
「……解った。伝えよう」
――しかし、滝沢司がその言葉を渉に告げることが出来たのは、全てが終わった後のことだった。
《屋上》
冬。
最近、渉は首に触れると、彼女の反応が変わることに気づいた。
性交のとき、彼女は渉の手首を掴んだり、手を握ったり――常に手に拘りを見せていた。何故かは相変わらず解らない。おかげで中々、自由に手で彼女を玩弄するには至らなかったのだが。
首筋の黒い痣。それはかつて、彼女の頸を絞めるために触れた男の、手のかたち。そっと辿る度に、日々輝陽の声は、少しずつ甘く湿ったものに変わっていった。
そんなある日のこと。休日の午後、いつものように無言のまま抱かれていた彼女が、突然ぽつりと呟いた。
「――両手で、触れて下さい」
強く掴めば容易く折れそうな白く細い、その頸。
渉は疑問を感じつつも、両手で彼女の首を撫でてやる。しかし輝陽はその仕草を拒否した。
手首をいきなり掴むと、彼女は自らの頸に渉の両手を押し当てて、今度はやや強い口調で言う。
「絞めて、ほしいんです」
「……出来るわけないでしょう」
「じゃあ――こういえば、絞めてくれますか?」
溝呂木輝陽は、その時初めて――渉の前で笑みを浮かべた。
「絞めたほうが、貴方も気持ちいいですよ、とか」
その微笑は、直ぐに消え去りそうに儚く虚ろで。――それでいて、ぞっとするほど美しかった。
だが、それは生者の笑みではない。既に命を持たないもの、人形の微笑だった。
「――それとも。私と家族の人生をめちゃくちゃにした、最後の責任を取ってください、って。そう言ったほうがいいですか?」
そう。溝呂木輝陽は全て知っていた。目の前の相手が、自らの家族を破滅させた原因の一つだと。しかし、その程度では渉の心は揺れない――いや、むしろ彼は、彼女が知っていることをこそ望んでいたのかもしれない。
「最後、という言葉の意味が判りませんが」
そう答えつつも、渉はすでに理解していた――この少女は死にたがりなのだ。私に殺されるために、私に近づく事を選んだのだ、と。
「……何故、と聞くことくらいは許してもらえますかね?」
輝陽は渉の両手を掴んだまま、ゆっくりと語りだす。
それは、彼女という存在を形作ってきた全てが崩壊した、あの日の光景。
「――あの人は、泣きながら何度も私を犯しました。お前たちのせいだ、って言いながら。私たちのせいで奥さんと子供が死んだ、って」
淡々と輝陽は記憶を語る。達観でも諦観でもない、彼女にとっての結論を。
「私はされながら思っちゃったんです。ああ――しょうがないな、って。私の両親が悪かったんだって。この人の怒りは理不尽かもしれないけど、でも」
薄く輝陽は微笑む。漂白された、振幅の少ない表情はやはり人形のようで。
「――この人になら、殺されてもいいや、って」
そこで一度、溝呂木輝陽は完結してしまったのだ。それから彼女の時間は止まってしまった。そして今も、止まったままでここに居るのだ。
「私なんか、死んじゃってもいいんだって。最初からいなければよかったんだって」
でも、と彼女は小さく息をつく。
「あの人は、私を殺してくれませんでした。最後、頸を絞められながら、私は笑ったんです。貴方は正しいんですよ、って、そう言いたくて。でも――そうしたら、あの人はまた泣き出して――」
それから後はマスコミの伝える通り。犯人は自殺し、彼女は生き残った。
「だから――これはあの時の続きなんです」
――そうして、もう一度、笑った。
「……だから、私に君の頸を絞めなさい、と?そう言うのですか」
「……はい。貴方の播いた種ですから、貴方が責任を取ってください」
馬鹿馬鹿しい――そう言って、この壊れ物の少女を部屋から追い出す。それがおそらく最良の選択肢。けれど、彼の頭に浮かぶのは。
自分が聴いたのか、後で他人に聞かされたのかもはや定かではないけれど、それでも記憶から消えることのない、一つの呪詛。
『お前なんか最初からいなければよかった。ここで雪に埋もれて消えてしまえ』
――母親だった女の言葉。
「最初からいなければよかったのに」
そう、この少女は私の母であり同時に私なのだ。だから――一瞬、渉の両手に力が篭る。ひゅう、と、輝陽の息が細くなる。簡単に折れてしまいそうに脆く儚いその頸の、黒い痣に渉は自分の手を重ね合わせて。
(私の母は。彼女は。私は――)
息を喉から搾り出しながら、輝陽は――それでも笑う。ああ。これは慈母の笑みだ。母といた瞬間の、無垢だった私の笑みだ。
とうの昔に失われたはずの、忘れたはずの感情が溢れ出す。憎い。憎い憎い憎い――その筈なのに――愛しい。
「……なぜ、泣くんですか?」
輝陽の静かな問いに、渉は我に返る。
――気がつくと、泣いていた。彼女の身体の上で、頸に手をかけたまま、泣いていた。
「……貴方も、泣いちゃうんですね」
涙が溢れて、輝陽の白い裸身を濡らしている。もはや、渉の手から力は失われていた。それを確認すると、どこか醒めた口調で輝陽は呟く。
「がっかりです。やっとあの人と同じ手を見つけたと思ったのに。でも……ちょっとだけ、ほっとしました」
それは、最後の結論を出してしまった人間の言葉。
「……やっぱり、人を巻き込んじゃ駄目なんだな、って」
彼女の右手が一閃した。ひゅっ、という風切音とともに、渉の左手、二の腕に焼けるような痛みが走る。
「……つっ!」
カッターナイフが、いつの間にか輝陽の手に握られていた。
身体を起こした渉の脇から抜け出すと、彼女は手早く服を身に着けていく。凰華の制服を再びまとう輝陽を、渉は切られた腕を抑えながら呆然と見守った。
「お世話になりました、渉さん。……ああ、早く止血したほうがいいですよ。静脈切れてますから」
後で渉は気づいたが、彼女が渉を名前で呼ぶのはこの時が最初だった。
「……どこへ、行くつもりですか」
輝陽はちょっと首をかしげて、それから――薄く微笑んで、告げた。
「とりあえず――屋上、かな?」
「……待ちなさい。それは」
「――待ちません。それじゃ、お邪魔しました――いや、さようなら、かな?」
渉が上着を羽織ったとき、既にドアは閉じられていた。
急いで屋上に向かう。
(何故あんな馬鹿な小娘を追いかける?自殺志願者は放っておけ)
それは自分の中の虚の囁きだったかもしれない。しかし、今の渉に虚無は必要ない。
屋上の扉を開けた瞬間、冷たい風が渉を包んだ。
午後の柔らかい光を存分に浴びているとはいえ、季節は既に冬。日光浴に向いた気温とは言い難い。バブル期に作られたこのマンション、屋上の金網も経年劣化は免れず、古びてぼろぼろになっている。酸性雨で赤錆びたその金網の上に、輝陽は扉の側を向いて腰掛けていた。
待ちませんと言った割に、渉が来るのを待っていたかのようにも見える。
「……そんなところに座っていると制服が汚れますよ」
「第一声がそれですか。ふふ……やっぱり、待ってて良かったかな」
「……どういう意味です。とりあえず、そこから降りませんか」
「渉さんは優しい人だなってことですよ。私なんかほっといて、怪我の治療してれば良かったのに」
「あんな言葉を聴いて、ほっておけるわけがないでしょう。それに優しいのは、外見だけかもしれませんよ」
何を今更、と輝陽は笑う。
「わたしはもう知ってるんですよ。貴方が私の頚に触れたときの感触を」
歌うように、彼女は続ける。
「とっても臆病で、優しくて。そしてあの人と同じで、だけど――私の望みとは違った」
「だから私は、貴方を巻き込むのはもうやめようと思います」
彼女は身体を支えていた両手を金網から離す。仰け反れば、恐らく向こう側へそのまま墜ちるだろう。渉は駆け寄りつつ叫ぶ。
「待ちなさい!」
「待つのは――これで終わりです」
そう言って、彼女はもう一度微笑むと――身体を後方に投げ出した。
同時に、ぎしい、と金網が音を立てる。渉が落ちだした輝陽の左手を右手で掴んだ瞬間、体を預けていた金網が大きく歪んで――倒れた。
「……っ!」
「んっ……二人分じゃ、この金網長くは持ちませんよ?離したほうがいいんじゃないですか?」
今や、輝陽は渉の右手だけでぶら下がっている。それを支える渉も、半ば倒れて外側に飛び出している金網に身を預けるような形で何とか屋上の縁に残っているだけであり、もし金網が本当に折れたら踏ん張り所を失って二人とも落下するのは間違いなかった。
「全く……私は立ち回りは苦手なんですがね……」
「なら離してください。こんな馬鹿な娘なんか、早く見捨ててくれていいんですから」
「ああ……馬鹿ですね。貴方は……本当に馬鹿だ」
いや、それは私もか、と渉は自嘲する。
「……二度見捨てるわけに、いかないでしょう」
「そうですか――でも」
一切の躊躇無く、自由な右手で彼女は渉の右腕に斬りつけた。
「……っ!」
握力を失いそうな右腕を、渉は必死で保持する。
「何故……そこまでして死にたがりますか」
輝陽はこの状況下で、なお微笑みながら語る。
「殺したいほど私が憎かった筈のあの人は、何で私を殺さなかったんだろうって」
そしたら、さっき、一緒に気づいちゃったんですよ。
しょうがないなって思ってたけど。
世界から消えてしまいたいと思っていたけど。
本当は私はあの時、死にたくなかったんだって。
そしてあの人も、本当は最初から私を殺したくはなかったんだって。
そう信じられれば良かったのに、私が私を信じられなかっただけなんだって。
「だから、私が世界から消えてしまう前にもう一度試したかった。待ってみたかった」
みしり、と金網が軋んだ。
「誰かが助けに来てくれるのか。誰かが殺しに来てくれるのか」
あの時は誰も助けてくれなかった。誰も殺してくれなかった。
でも貴方は、来てくれた。そして――殺さないで、助けてくれた。
「だからそれだけで、もう充分なんです」
貴方が私を殺せる人なら、罪を負わせるのに丁度いい、と最初は思ってたけど。
そうじゃなかったから。
「だから、こんな馬鹿な娘のことは――忘れてください」
――そうして、さようなら、と彼女の唇が動いて、
カッターナイフはもう一度、今度は渉の手の甲を裂いた。
渉の手が彼女から離れた瞬間。
輝陽は、晴々とした顔で笑った。
その唇に浮かんだ言葉は。
(――ありがとう)
最後にそれだけを告げて――彼女は墜ちた。
「――――輝陽!」
渉は絶叫する。
いつの頃からかけして声を荒らげることをしなかった彼の、それは初めての慟哭。自分は、またしても置いていかれたのだと、そう思った、その瞬間。
――果たして風の気まぐれなのか、或いは奇跡か偶然か。
ただ渉は憶えている。その一瞬だけ寒風ではなく、暖かい春の風が吹いたような気がしたことを。輝陽の身体は時ならぬ風に煽られて、わずかにその墜落速度を減殺された。装飾の多い、分校の制服が幸いしたのかもしれない。
風に流された彼女は、垂直落下地点からそれて街路樹に当たり、枝に引っかかって墜ちる速度を減じた身体は次に、駐車場に止まっていた外車のボンネットの上に落ちた。
そこからもう一度跳ねて、今度こそ地面に落ちて。動かなくなった彼女はしかし、まだ人の形を保っていた――だから。風が去った後、肌に刺さる冷たい感触にも渉は気づかない。
雪が、降ってきていた。それが今年初めての雪だと認識することも無く、渉は輝陽の元へ行くために屋上を去る。自分の傷も痛みも何もかも忘れて――ただ急ぐ。
雪がとぎれて――空には 鳩らが低く
飛んでゐる 曇った空に……風景よ
ときに おまへは 忘却であり
おまへは 美しい追憶である
《対話》
――外ではまだ、雪が舞っていた。
邑那は窓の外を見ている。先ほどまで携帯で話していた燕玲が、彼女に現在の状況を説明していた。
「病院の司から連絡があったわ。奇跡的に命はとりとめたそうよ。ただ、頭を打っているそうだから予断は禁物ね。何らかの障害は残るかもしれないわ」
「――そう、ですか」
邑那の表情はやや硬く、瞳にもいつもの力が無い。
「落ち込んでいるわね、ゆう」
ここには彼女たち二人しかいない。燕玲の呼びかけは総帥に対してではなく、艱難をともにしてきた親友に対してのものだが、その口調はわずかに苦かった。
「そう見える?……そうね、あなたは正しいわ、イェン」
「――最初から、こうなると思っていたの?それとも、こうなる事を望んでいた?」
邑那は無言で首を横に振る。
「私は、お兄様が変わり得るものかどうか知りたかった。世界があの人の虚を埋めるに足る程のものを持っているのかどうか、知りたかった。あるいは、彼がもし変わり得るのならば、私たちもまた、より良い方向に変わることが出来るのだと――確信が欲しかったのかもしれません」
「――ならば、貴方は成功したのかもしれないわね」
「こんな終わり方が?」
「何も終わってはいないわ、ゆう。これから始まるのよ。今、司が渉を連れてくるわ」
「私が今のお兄様に対して、何が出来ると?」
「落ち込んでいないで顔を上げなさい。渉と彼女のために出来ることは沢山あるはずよ」
燕玲はあくまで力強く邑那を励ます。それは空虚な慰めではなく、全てを知っているが故の言葉。「試験」がもたらした結果に揺れる邑那への激励。
「心配は無用よ。ゆうの弱い部分は私たちが補うから。ゆうの女の部分は司が支えてくれるし、貴方の魔は私が共に負うわ。だから私たちがそばにいる限り、決して貴方に絶望なんてさせやしない。それを呪いと呼ぶなら呼びなさい」
だけど憶えておいて、と燕玲は微笑む。
「私も司も、貴方のために生き貴方のために死ねる。だからこそ、一緒に最後まで生き抜きましょう。いつか誰かが私たちを裁くとしても、その時までずっと」
「――ありがとう、イェン」
――滝沢司は戻ってくると、無言で邑那を抱きしめた。
「司さん……」
眼を閉じて、邑那は身を預ける――震えていた身体が、少しずつ落ち着いていった。
「……大丈夫。溝呂木も、渉さんも、大丈夫だから」
「……はい」
「震え、止まった?――渉さんと、話せるかい?」
「ええ。もう大丈夫です……渉お兄様と、会いましょう」
――渉から見た総帥は、若干憔悴しているように見えた。全てを見通す彼女にとってすら、今回の結末は予想外だったのだろうか?
どうでもいい。今回の件が彼女の仕掛けた事であろうとなかろうと、もはや関係ない。ここに来たのは、ただ一つの願いを告げるため。それ以上の望みは、渉には無い。
「お疲れの所ご苦労様です、お兄様」
「ご命令とあらば。それに、私も総帥にお願いがありまして」
「お願い、ですか」
やや総帥は戸惑っている様子だ。無理も無い。渉から総帥に何かを要求したことは、これまで無かった。だが彼は淀みなく願いを告げる。
「溝呂木輝陽――彼女を私は妻に迎えたいと思います」
一瞬、総帥の眼が眼鏡の奥で細められ――それから、わずかばかり明るい表情に変わった。
「貴方にカッターナイフで斬りつけた危険人物で恐らくは自殺志願者ですが、それでも?」
「はい」
「私がもし否といったら、お兄様は納得していただけるのでしょうか?」
「……それは、問われるまでもありません」
総帥への忠誠は絶対。だからこそ、この立場にいられる。選択の余地など――
「お兄様、いつもの笑顔が消えてますよ」
総帥の言葉で初めて、渉は自分が全く笑っていないことに気づいた。
「私は、お兄様の真剣な顔を、今初めて見た気がします」
そう言って、総帥――蘆部邑那は微笑んだ。
「――少々、お待ちいただけますか?」
渉を一旦外で待たせて、今度は三人で協議する。
「秘書としてでない、司さんとしてのの意見を聞きたいですね」
「僕は賛成だ」
司は迷いなく断言する。
「邑那が僕を通して変わった――と僕が言うのは自惚れかもしれないけど、渉さんもまた溝呂木を通して変わったのだと思う。今の渉さんには変わろうとする意志があるとぼくは信じたい」
「本当にそうだと私も嬉しいのですけど。司さんの言葉は時々凄く私には重いんですよ。解っていらっしゃいます?」
「勿論。陽道が今の体制になってから、どれほど変わったかも僕は間近で見て知っているしね」
無論、利潤を追求するのが企業体の至上命題である以上、変わりえぬ部分は存在する。しかし、邑那と燕玲が敵を容赦なく滅ぼして一顧だにしないかつての手法を、少しずつ変えてきているのは紛れも無い事実だった。無論、それが全て自分のおかげだと言うほど司は自惚れてはいない。まず彼女らが変わろうと欲した結果がそこにあるだけだ。
「変わるのに、遅すぎることなんて無いしさ。所詮甘い偽善だと燕玲は言うかもしれないけど、やらない善より、やる偽善は永遠の真理だし」
「まあ……そう言ってる時、貴方は確かに教師らしく見えるわよ。だから私も生徒として聴いてあげてるじゃない?」
燕玲は半ば呆れつつも、どこか照れ臭げに笑う。
「行動せずに教壇から言うだけだったら、僕はこんな台詞を君たちに言うことは出来なかったと思うよ。だから僕は教師を辞めたことを後悔してないし、邑那にも燕玲にも、僕がここに居る事を後悔なんてさせない。それが僕がここに居る意味だ。……そして、渉さんに対しても、そうできたらいいと僕は思う」
何故なら、鹿野上渉はここにいる全員にとっての影であり、そうなっていておかしくなかった鏡像としての自分なのだから。
「まあ、そうね――私たちは所詮、偽善者で偽悪者よ。人のために何かを為すとしても、それは究極的にはあくまで自分のためでしかない。でも、私もゆうも司も、自分でそれと知っているわ。だから嘘と悪を道具として、誰かが善と呼ぶものを作り出してやれば、まあそれでいいんじゃないかしら。喝破したければすれば良いし、否定したければすれば良い。思うままに憎み嘲れば良い」
私たちの仕事を代わりにやれる者はいないのだから、と燕玲は言う。
「私たちはただ、自らの欲するままに偽善を成せばいい。罪荷を負ったまま往けばいい。呼吸するように嘘をつき、水のように陰謀を求めながら、悪意を以て偽善を為し、善意を以て偽悪を為しましょう」
その果てに、罪を重ねる以上の何かを地上に積み上げられるのなら、と邑那は応える。
「――偽善にも何らかの意味は付与されるでしょう。事の正否は、荷を負うことのない者に預けましょう。だから、私たちに石を投げる者を祝福し、私たちを崇拝する者を憎みましょう」
「――それが僕たちを律する法であり、僕たちを縛る鎖であると認識しよう」
司が最後を引き取り、三人は互いに見合って微笑んだ。
「……燕玲は、いつも私たちの背中を押してくれるわね」
「いつも、最初は僕の発言に否定的なのに、結局最後は応援してくれるんだよな」
やれやれ、と言う顔で燕玲は肩をすくめた。この二人は熱くなるのは仕方ないとして脇道にそれると中々戻ってこない。怪我をしたままの渉をあまり待たせるわけにもいくまい。
「褒めても何も出ないわよ……と言うところで、結論は出たようね?まあ、渉なら簡単に死にやしないわよ。もう何回か殺されかけてもいいんじゃないかしら?その度受け止めてやれば、彼女のほうもその内つまらない意地を捨てるでしょ」
「イェン、そんな投げやりなまとめ方は……それに、私がそもそも彼を鳳華に」
「ゆうはあれこれ考えすぎなのよ。二人とも無事だったんだし、貴方が結果的に恋のキューピッドになったと思っていればいいの」
「……あ、今想像しちゃった」
「……司さん。しちゃった、ってどういう意味ですか?後でお話がありますからね」
邑那はむくれてみせたが、その表情から、最初の曇りはもうすっかり消えていた。
おまへの灰色は 鳩らと共に
灰色であり むしろ 慰め!だ
ためらひながら ひとつの情緒の
こころよく 訪れるときに――
《向日》
再び呼び入れられた時、総帥の顔がさらに穏やかになっていることに気づいた。
「お返事をする前に、一つお兄様に確認しておくことがあります」
「……何でしょうか」
「もし、今回と同じような状況に陥ったとき、お兄様はまた、あの子に手を差しのべますか?」
「……そうですね。そうするでしょう」
「また切りつけられて、今度は腕を切り落とされたら、どうします?」
「……そうですね」
渉は一寸考えて。
「……その時は、もう片方の手を差し出しますよ」
微笑んで、答えた。
「……解りました。多分、私は、その答えが聴きたかったのでしょう」
渉はその時、総帥としてではない、榛葉邑那の笑顔が自分に向けられるのを初めて見たと思った。それははっとするほど美しく――そして同時に、真摯な慈愛に溢れていた。
「お兄様と彼女の前途に、幸あらんことを」
「……ありがとうございます」
「礼なら燕玲と私の秘書に仰って下さいな。彼女たちが貴方たちなら大丈夫だと、保障してくれました」
そう言って見せた今度の笑顔は、年齢相応の少女の面影を残した悪戯っぽいもので――そう、結局の所、彼女もまだ成長の途中なのだと、渉は改めて知った。
総帥ほどの人間でさえ、完璧には程遠い。いや、支配者として完璧というだけでは、恐らく今の彼女は満足できないのだろう。ただ人を支配するだけではなく、恐らくはより良い支配をもたらすことを求める。それこそが、滝沢司がもたらした変化だったのだろうか。
渉には解らない。解るのは、誰も変わらずに同じ場所に居続けることは出来ないということだ。
輝陽は変わることを拒否し続けていたけれど、皮肉にもその彼女によって私は変えられた。
ならば今度は、私自身の意志で彼女の手を取りに行こう。彼女を変えに行こう。
彼女は、私の欠片を拾ってくれたのだから。
彼女は、欠片を私の中に残していったのだから。
これから、互いの欠片を拾い集めながら、私たちは歩いてゆけるだろうか。
総帥たちのように、互いに笑いあえる日がいつか来るのだろうか。
――病院で渉は、相沢美綺からの伝言を司に教えられた。
「言葉は信じるな。心を信じろ――ですか」
輝陽の言葉を思い出す。
「わたしはもう知ってるんですよ。貴方が私の頚に触れたときの感触を」
「とっても臆病で、優しくて」
渉は自嘲しつつ、く、と短く笑う。
成程、それは自己認識としては嘘としか言えない――しかし。
「彼女がそう言うのなら、敢えて信じてみましょうか――そんな自分を」
彼女の心をまず信じられるなら、遡ってその言葉も信じてみよう。今の自分がどうであれ、そういう存在になってみるのも悪くはない。
変わらないものなどないし、正義も悪も永遠ではない。そんな世界で、求めて、足掻いて、何度でも手を伸ばして――私たちは、生きていく。
踏みしめる大地は緩く不確かで、その上に築き上げるのは所詮砂の城と偽りの庭園かもしれない。それでも、その庭に花壇があって花が咲くのなら。そこに根付いた花が一輪でも残れば、それでいいのだと――それも悪くない、と渉は思う。
だから、何年か後に、願わくば。
彼女から、もう一度同じ言葉が聞けますように――渉は、願う。
自分の臆病で、優しい心の欠片に。
――輝陽に。しばらく病院暮らしになるだろう彼女に。
その内、花でも買っていこうか。
何がいいだろう?
ああ。そうだ。
向日葵なんてどうだろう。
観賞用の小さなものが、売っていたような気もする。
冬に咲く向日葵。
そんな場違いな花も、それはそれで。
悪くはないんじゃないか。
きっと、彼女なら――喜ぶだろう。
おまへとの一日が たとひ無限を
あこがれないものであらうとも
僕らのフーゲが むしろくらく低く
寂寥のみの場所の あらうとも
風景よ おまへは自らの光をねがふ
雪のなかの風景のしづかさに住んで
――立原道造「一日」より
「輝陽」了。