――架空の庭。
時に僕は、自分を取り巻く全てが現実では無い――そんな感覚に襲われる事がある。
だけど僕は、この庭の中で生きている。
小夜先輩と一緒に――生きている。
卒業式も近づいた、ある日の図書館。
小夜先輩はなにやら文庫本に熱中している。
「あれ……それ、漫画ですか?」
こくりこくり。
小説か何かと思っていたら、文庫サイズの漫画本だった。
先輩が持ち込んだのだろうか。
――みる?
小夜先輩は、僕に本を差し出す。
絵柄からするとやや古めの少女漫画のようだ。
ちょうど先輩が読んでいたページが眼に止まる。
――月夜に踊る、少女と少年。
それだけなら、少女漫画ではよくあるようなな甘ったるい光景かもしれない。
ちょっと普通と違うのは、「少年」の姿だった。
何故か、カーテンで作ったと思しき奇天烈なドレスを羽織っている。
おかげで、付けられた台詞は詩的なのにも関わらず、どこか全体的にコミカルな印象だった。
「――コメディなのかな?」
くいくい。
袖を引っ張られる。
先輩の指先は、何故かその少年の絵の上で止まっていた。
――にあう。
「――僕が?」
こくこく。
女装というか――まあ、一応女装か。
この僕が、女装。
それは、正直どんなものだろう……
幼いころは、彩姉の綺麗な服に憧れたことも――確かに、無かったとは言わないけれど。
今は、当然ながら敢えて着たいとは思わない。
「ドレスは、先輩のほうが似合うと思うな」
僕たちが結ばれた夜に、先輩が着ていたドレス。
――あれだけ。
あれしか持っていない、と。そういうことらしいが。
「あのドレスを着た先輩は、可愛かったですよ」
勿論、いつも可愛いのだけれど。
にこにこにこー。
言外の意味を判ってくれているのかいないのかはともかく、先輩の笑顔はさらに明るくなる。
――着る?
「……カーテンとかを?」
にこにこにこにこー。
「――それは、ちょっと」
むー、とちょっと考え込む先輩。
す、と立ち上がって、何やら別の本を探しに行く。
……ぱたぱたぱた。
ややあって、持ち帰った本をばさりと開き、指差した先には。
なにやら怪しげな仮面をつけた、黒いマントの漢。
「……怪人?」
得意げに、小夜先輩は胸を張る。
――るぱん。
もしくはなんとか仮面とかその類の、所謂世を騒がせる怪人の常備品。
――おやくそく。
「――マント?」
こくこく。
「……まあ、それぐらいなら」
人目さえ無ければ、要望に応えられないこともない、かもしれない。
持ち運びも、さほど難しくはないだろうし。
――だけど。
そんなもの、どこにあると言うのだろう。
聞いてみる。
小夜先輩は、首をちょこん、とかしげて、そのまま三秒ほど止まっていたけれど。
やがて僕の手を両の掌で挟んで、にこりと笑った。
――がんば。
そう言われた以上、僕は。
どうやら自分に似合うマントを、探さなければいけないらしい――
こういうとき、頼りになるのは交友関係の広い友人だが。
流石に同室の二人や絵里香に話せるような事ではない。
「――仕方ないな」
――だいじょうぶ。なーこちゃん、いいこ。
小夜先輩のお墨付きを得た僕は。
「馬鹿じゃないの?て言うかむしろ馬鹿なの?」
撫子先輩に相談して――予想通りの返事を貰った。
「……その通りかもしれません」
「あのねえ……涼、貴方もう少ししっかりしなさいよ。なんでも小夜の言う通りにしないの」
「……そう言われると、返す言葉もないですが」
「しかもよりによってあたしに相談する?信じられないわ」
真剣に怒っているというより、むしろ心底呆れているという印象だった。
「まあ、同室のよしみということで一つ――と、小夜先輩が」
こくこく。隣で先輩がにこにこしつつ頷く。
「あんたねえ……まったく――あたしがもし言いふらしたら変態カップルのレッテル張られるのよ?いいの?」
ぶんぶん。ぶんぶん。
小夜先輩は、二回に分けて首を横に振ってから、僕を安心させるように微笑む。
――なーこちゃんは、そんなことしないから、だいじょうぶ。
「……何て言ってるの?」
――通訳する。
「ふーん……涼は、小夜の言うこと何でも解るのね。ふーん、そうなんだ、ふーん」
はあ、と撫子は溜息をつく。
どこか拗ねたような表情だった。
その表情の理由も、溜息が何に対してのものかも、僕には解らないのだけど。
「まあ――そんな感じです」
素直に肯定する。
何でもではないと思う、けれど。
にこにこー。
「あんたはちょっと引っ込んでなさい」
――しゅん。
しょぼんとなる小夜先輩を尻目に、撫子は解決策を提示してくれた。
「――演劇部の備品に、そんなのがあったと思うわ。どうせこの時期は使いやしないから、知り合いに借りてあげる」
「どうやって?」
「後輩の子がコスプレしたいとか――まあ、どうにでもなるわ」
――その代わり、と、撫子は僕をじろりと睨む。
「涼、貴方にはいずれ埋め合わせしてもらうから」
「はい――ありがとうございます」
「ヌードモデル頼んだ後でも、その言葉が言えるかしらね」
「……ヌード、ですか」
――わたしも、いっしょ?
小夜先輩が自分を指差して、微妙に赤くなる。
「……二人一緒のわけないでしょこの子は」
――じゃあ。
先輩は、撫子先輩の手をとって、
――なーこちゃんも、いっしょにおどる?
通訳は――必要なかったようだ。
「一緒にできるわけないでしょ……もう」
それから、ひとしきり小夜先輩についての愚痴を聞かされて。
埋め合わせについて釘を五本くらい刺された後、僕と先輩は解放された。
……小夜先輩と撫子は、部屋で普段どんな会話をしているのだろうか。
意外と撫子にも、小夜先輩の音楽は聞こえているのかもしれない。
僕はそんな事を考える。
ただ彼女は、それを他人に認めようとしないだけで――
それから、しばらく経って、マントが届いたので。
月の降る夜に、二人であの庭に出かけた。
小夜先輩は、ドレスを着て。
僕は、借り物の黒いマントを羽織って。
中心の広場で。
月明かりに照らされて。
観客の居ないダンスを、僕たちは――踊る。
手を取り合って。
ステップを踏み。
胎内のリズムに合わせて。
息を弾ませ。
ドレスの裾を閃かせて。
マントの端をはためかせ。
二人で――音楽を奏でる。
冬の残り香のする、木々を渡る夜の風も。
僕たちの中で、音楽に変わる。
そうして僕は歌い。
小夜先輩もまた、うたう。
そう――そして僕たちは、この夜だけでなく。
桜舞う春の朝も。
汗の粘り付く夏の夜も。
秋風の吹く夕暮れ時も。
粉雪の降る冬の朝も。
手を取り合って。
ゆっくりと、歩いていくのだろう。
僕たちのスピードで。
互いの歩幅に合わせて。
うたいながら、前に進んでいくのだろう。
――僕たちの現実を、生きていくために。
――それから。
三年生が卒業してしばらく経った、ある日。
僕の部屋に、一つの荷物が届いた。
サイズこそ大きいが厚さはあまりない、長方形の箱。
差出人は――春日撫子。
「……何だろう」
「さあ、何だろうね?」
そう言いつつも、持ってきた島津は何故かにやにやしていた。
「知ってるのか?中身」
「さあ?あ、僕たちは出てるから安心して。ほら、行くよトシ」
「――ってジュン、ちょっと待てよおい!ああもう――涼!あとで教えてくれよ!」
二人ともさっさと出て行ってしまう。
どうも何か、誤解されているような気がする。
大体、ヌードモデルは結局やらずに終わったし。
――しかし、この箱の形状は?
結局、開けてみて――腑に落ちた。
――それは、一枚の油絵。
僕と小夜先輩が、踊る姿。
月夜のドレスと、黒いマント。
遠景――美術室から?
あるいは屋上からでも見えたのか。
月光をスポットライトにして、踊る男女。
描かれた人影は、決して大きなものでは無くて。
だけど二人の表情は、とても、楽しそうに見えた。
一緒に付いていた便箋にはただ一言。
題名だろうか。
「月夜の歌」
――そう書かれていた。
撫子の小夜への――僕らへの、彼女なりのプレゼント。
きっと、そういう事なのだろう。
……撫子にも、あの日の音楽は聴こえたのだろうか。
だとしたら、嬉しい。
「二人で、お礼を言わないといけないな――」
小夜先輩と――いや、小夜と。
二人で、この絵を見よう。
僕は、そう思った。
「おわらないうた」end.