遥かに仰ぎ、麗しの 二次創作SS

「Cherry Girls」



Cherry Girls


 ……この時間は、彼女だけのもの。

 読書灯だけがベッドを照らす中で、もぞもぞと動くパジャマ姿の影。

 密やかな声が漏れる。

「……んっ……あ」

 指が中心を求めて動く。

 誰かを想いながら、彼女の手と指は的確に自ら快楽を貪る。

「あっ……ん…………ッ!」

 ひときわ高い声が部屋に響いた後。

 全身の力が抜けてベッドにだらり、と横たわった彼女はじっと手を見る。

 指先を光に照らすと、半透明の液体がわずかに糸を引いた。

 恐る恐る――だが結局はいつものように、おずおずと伸ばした舌がそれを舐めとる。

 少しだけ、塩辛かった。

 同時に襲ってくるのは、自己嫌悪と虚脱感。

「また……やってしまいました、なのです……」

 そう言いつつも、決して彼女は毎夜のこの儀式をやめようとはしない。

「……シャワー浴びて、寝ましょう」

 身だしなみはきちんとして眠ること。

 その必要性を誰よりも、自分が一番よく知っている。

 そもそも、もともと寝相が良いほうではなし。

 加えて、朝の自分がどんな状態にあるかを思えば必要かつ重要な予防措置だった。

 たまに、毎日これをしているせいで朝が弱いのでは、と思うこともある。

 けれど――今の彼女は、してから、でないと眠れないのだ。 どんなに罪悪感を覚えても、やめられなかった。

 特に最近。皆が遊ぶ砂浜に、遅れて一人の少女がやってきた、あの日以降は。

 机の上の写真立てに一瞬眼をやった後、はぁ、と溜息をついて彼女は浴室に向かった。

 写真の中には、水着姿の少女が良く似た髪の色を持つ姉と話している光景があった。

 楽しそうに。とても――楽しそうに。

 彼女は思う。

 なぜ、私は楽しくなれないんだろう。

 楽しく――なりたいな。


「香奈ちーん!朝だよっ!メイドさん来ちゃうよー!」

 大銀杏弥生の声が遠くから聞こえる。

 分厚い扉を超えて届くということは、よっぽどバカでかい声で叫んでいるに違いない。

(………………)

 もぞり、と眼の開かぬまま三橋香奈は起き上がった。

 条件反射のようなものだ。とりあえず体は直立しても、脳は90パーセント眠っている。

 部屋の物体もほとんど「見て」はいない。 カンブリア紀の生物のように、光の濃淡だけで部屋の中の障害物を認識し回避する。

 だがこんな状態でも、歯ブラシや洗面用具はいつのまにか必ず手にしている。

 毎日必ず、同じ場所に配置してから寝るという下準備のおかげだ。 もし誰かが歯ブラシと剃刀をすり替えていたら大変なことになるだろうけども。

 絶望的に朝に弱い彼女の最低血圧は20以下。中学の修学旅行では変温動物と呼ばれた。

 小学生のころ、朝起こしにきた母が驚愕のあまり救急車を呼んだこともあったほどだ。

 朦朧としたまま、香奈がそのままドアを開けると。

「ふがっ」

 今日も誰かにぶつかったらしい。

「うぐぐぐ……またか三橋……いつも言っているが出てくる前に服を着替えろ!また胸元がっ下着がっ」

 例によって滝沢先生のようだった。

 何故いつも扉側を歩くのですか、と普段の香奈なら思うだろうが、今の彼女にそこまでの思考力はない。 先生と認識したのも声がデジャヴと結びついたからに過ぎず、会話しようという意思も当然生じない。

 溜息をつく滝沢の背後から響いた声もまた、耳には入っているが聞いてはいない。

「はいはいそーこーまーでー!センセ、朝食まだでしょ?一緒にいこっ!」

「……おはよう、相沢」

「おっはよー!もう我が妹は食堂いっちゃったよっ!」

(………いもうと?)

 そのフレーズに生ける屍状態の香奈はぴくり、と反応した。

 相沢美綺と連れだった教師の足音が遠ざかるにつれ、彼女の脳内から霧が晴れていく。

「……いも」

「およ?眼ぇ醒めた?香奈ちん」

「……芋?ぽてちでも食いたいのかな?」

 弥生とのばら他、残されたいつものメンバーが首をかしげて見守る中。

 ややあって、認識が戻ってくる。世界が開ける。

 …………。

「きゃああああああ!あさああああっ!着替えっ着替えええええ!ごはんっ!」

「おー、今日は素に返るの早いじゃん香奈ちん。あったしが呼んだおかげかなっ」

 自分に常に都合よく解釈する弥生に、のばらは冷静に返す。

「やーちゃん、賭けに勝ちたいからってあんなでかい声で叫ばなくたってさー。まあ、時間見た限りではあまり意味無しだったみたいだけどー?」

 ちーん。エレベーターの音。配膳の時間だ。

「あれれれ、メイドさんもう来ちゃったよ。んーとぉ……着替え間に合うと思う?」

「今日も駄目だと思うねー。つーことで賭けはあたしの勝ち……ああっ逃げるな弥生っ!」

「いつも通り♪いつも通り♪」

 双子がさえずるように宣言すると同時に、メイドさんズが朝食の配膳ワゴンを押して現れる。

 やんややんややんややんや。

 ……そしていつものやり取りの末、今日もワゴンは香奈の部屋をスルーしていった。

 扉の向こうから引き止めを懇願しつつ、ようやく着替え終えた香奈が出てきたとき、既に美味しい筈の朝食は遥か彼方。

「ああっ……朝ごはん……」

 未練がましく手をそちらに向ける彼女の背後からぽんぽん、と誰かが肩を叩く。

 力なく振り向くと、そこにはちよりんが影のように佇んでいた。

「……スルー記録継続中」

 一言ぼそりと呟いて、足音もたてずそのまま通り過ぎていく。

 とどめを刺され、気力の尽きた香奈はそのままへたり込む。

 ぐきゅるるるぅ、と同時におなかが鳴った。

「……ごっ……五ヶ月超えなのですっ……」

 新学期から一度たりと、香奈は朝食にありついていなかった。要するに、長めの休暇のとき以外は土日ですら常に逃しているのだ。

 それならワゴンを止めて食堂で摂ればよさそうなものだが、こんな彼女にも意地があり人並み以上に他人への見栄がある。

 かてて加えて自分から何かを変えよう、とはなかなか言い出せないタイプでもあった。

 といって朝、無理やり起きるだけの意志力も使命感も血圧も彼女にはなく。

 かくして記録は更新を続ける――とは言え、年頃の娘がずっと昼まで何も食べずにいられるはずもないわけで。

 食事が当たらない可能性を見越して、普段の香奈は休憩時間につまむ菓子などをあらかじめ調達していた。

(我ながら常に弱気だとは思いますけど……しかしっ)

 しかし今日。一時限目の授業を迎えた香奈の顔色は青ざめていた。

 ポーチに入っていた筈の菓子類をすべて切らしていた。その上たまたま小銭の持ち合わせも無い。

 重大な危機であった。 休憩時間に寮まで戻っている余裕はない。売店も使えない。 しかし、周囲に菓子や小銭をねだるのは彼女のなけなしのプライドが許さない。

 ――つまりそれは、昼食までこの状態で耐えねばならないという事を意味していた。

 ぐ……ぐきゅるるるるうっ。

 一時限目から盛大にお腹の虫が鳴り響く。

 昨日の夕食は早めに終えてしまったので、胃の中には一切何も残っていない。

 胃液が空きっ腹に沁みるのを彼女は感じていた。踏んだり蹴ったりである。

(ううっ……恥ずかしい……)

 音に関しては、本人が思っているほど周囲に響くわけではない。

 加えて周りはいつものことなので気にもしていないのだが、本人の羞恥心には重大なダメージだった。

 しかも今日は、隣に彼女がいる。

 元は鋼鉄の委員長、しかして今は相沢美綺の妹。すなわち仁礼栖香が。

 何度目かのぐきゅるる、の後、ちらりとその仁礼が香奈を見た。

(聴かれた?ううっ……恥ずかしいですっ……)

 彼女には。彼女にだけは、こんな姿を見せたくはないのに。

 もっとも、香奈の内心を知ったら同級生は口を揃えて「今更遅い」と言っただろうが。

(ただでさえ軽く見られているのにっ……一層軽蔑されてしまいますっ……うう)

(……三橋さん?)

 その時、彼女がそっと囁いた。

(……え?)

(良かったら、食べて下さい)

 机の影から、そっと手がこちらに差し出される。

(……ちろりちょこが三つ)

 華奢で繊細で色白の、彼女の手にちょこんと乗った、やや場違いなお菓子。

 休憩時間につまむためのものだろうか?とは言え香奈には過去、仁礼がそのような行動を取っていた記憶はない。

(ちろりちょこ……も彼女らしくない……ですがっ)

(……御嫌いですか?)

(あっ……ありがとうございます……)

 恥じ入って、でも遠慮している場合でもなく、香奈はそっと受け取った。

 先生の眼を盗みつつ、口の中に放り込んだその味は――いつも食べるチョコより、さらに甘く感じた。


 昼休みになり、なんとか資金と栄養は補充完了。ようやく人心地がついた香奈は、食堂から出たところでトイレから出てきた仁礼に会った。

 慌ててもう一度先ほどの礼を言う。

「に仁礼さんっ!さささっきはどうもありがとうございましたっ」

 いえ、と彼女はにっこり笑って。

「お気になさらないで下さい。何しろ音が聞き苦……いえ、失礼致しました」

 こほん、と咳払いをして頬を赤らめる仁礼栖香。

 今何て言ったコラ、と思いつつもむしろ落ち込む香奈。

(聞き苦しいって言われた……仁礼さんに……ううっ……)

 だがその栖香は眉間にしわを寄せてなにやら真剣に考えている。

 その表情に怯えながらも香奈は尋ねてみる。

「……ま、まだなにか?」

「いえ、済みません。中々適切な言葉が見つからなくて。その……三橋さんも、余り人に聴かれたい音では無いのでは、と思ったものですから」

 どうやら気を使ってくれていたらしい。言葉の選択はともかくとして。

「いいいえええええ!あああ有難うございます本当に!そのっ、でも、仁礼さんがチョコを持ち歩くなんて意外で」

「ええ……実は朝食の後にお姉様から頂いたのですけど、食べきれなくて……後で頂こうとは思っていたのですが」

 そんな大事(と仁礼さんが思っているであろう物を)呉れたのか。青くなった香奈は即座に返答する。

「ごめんなさいごめんなさいっ。買って返しますっ」

「宜しいですよ。また貰えますし……それに、その」

 何故か口ごもる栖香。

「……何か?」

「私は余りその……三橋さんのように休憩時間に食べる習慣が無いものですから」

 どずんと再び落ち込む。

(ううっ――そんな比較をされると私の育ちの悪さがにじみ出ている様じゃないですかっ)

「……習慣ではないんですっ!これは止むを得ない事情があってですねっ」

「そうだったのですか?」

 反論する香奈に首をちょっと傾げた後、はた、と手を打つ栖香。

「ああ、そうでした。朝食をいつも御摂り出来ていないので御腹が空くのですね」

「…………」

 今度こそとどめを刺された。

 必死で平静を装いながら沈没し続ける香奈の前、なにやら考えていた栖香は突然提案してきた。

「あの……もし宣しければですが、私達と、食堂で朝食を御一緒致しませんか」

 え?と香奈は自分の耳を疑う。

 何ですか、その振って沸いたような良い話は?

「最近良く、お姉様と上原さんと滝沢先生で食べているのですけど、三橋さんも一緒ならもっと楽しくなるのではないかと――」

 何故。そんな、飛びつきたくなるような話を。

 今。こんな時に。

「ああああのあのあのっ」

 気がつくと香奈は、

「ううう嬉しいんですけどっ、私は朝ちゃんと起きれるようになりっなりたいのでっ」

 心にも無い言葉をひとりでに紡いでいた。

 ――起きられるわけが無いのに。

「ワゴンの朝食を、食べられるようにならないと人としてっ」

 努力してるといいつつ、本気で頑張ったことなど無いのに。

「ままっままたの機会にっ!」

 ばたばたばたっ、と後ずさりしてしまう。

 そうしたく無い筈なのに、何かを恐れて、下を向いてしまう。

「……そうですか。では、またの機会に」

 栖香の声は怒っているようには聞こえなかった。

 香奈は恐る恐る、眼だけで彼女をちらりと見上げる。

 ――美綺と和解する前の仁礼栖香が、そこに居た。

 家族と団欒する美綺を影から見ていたときの、あの眼。

 寂しそうなその眼が視界に入ったとたん、さらに香奈はいたたまれなくなって。

「ごっごっ――ごめんなさいですっ!」

 その場からダッシュで、離れてしまった。


「ふ……ふえええええんッ!」

 ダッシュしながら彼女はぐずぐず泣く。

 いつもの――そう、いつものように。

(なぜ、いつも私は、私はっ……正直になれないのでしょうかっ!)


 三橋香奈。

 気が弱くてすぐパニクる。

 努力こそするが、客観的に見るとあまり成果を挙げていない。

 困るとしばしば思ってもいないことを言って、その場を取り繕おうとする。

 ちょっと頑張るとその度に言葉尻を捉えられ、足元をすくわれる。

 舞い上がって高いところに立つと、自分から足を踏み外して落ちる。

 せめて屋根の上ぐらいならと昇れば、誰かに梯子を外される。

 ――そんな彼女。


 そんな香奈に、転機が訪れたのは。

 夏も終わり、長雨がやって来る少し前のことだった。  


 今日も今日とて。

 深夜二時の寝室。

「……あっ……はぁっ……いっ」

 熱と湿度を纏わりつかせた吐息と嬌声。

「んっ……くぅ……っ!」

 やがてそれは絶頂を迎え。

 いつものように、脱力した香奈はのへー、とだらしなく体を伸ばす。

「はあ…… またまた……やってしまいました……なのです」

 ややあってぽとり、と彼女の大事な部分から毀れ落ちたのは、三種四個のちいさな立方体。

 D100とD8とD6のダイスだった。本来何のための物かは言うまでもない。

 濡れたそれを掌の上で転がしながら、香奈はまた罪悪感に浸る。

「……だいぶ磨り減ってきてしまったのです」

 そのダイスはかなり年季が入っていた。角はもう、随分と丸くなってきている。 そのうちセッションで使うにも問題が出てきそうなほどだった。

(今までは誰にも気づかれなかったけれど……弥生やちよりんは変な所で鋭いから)

 当然ながら香奈としては、余計な詮索をされるのも困るのだった。

 最も、それ以前の問題としてゲームマスターの神様なるものが居たら、速やかに雷を落とされていそうな彼女ではある。 神聖なダイスを目的外に使用するな、と。

(まだ入り口までしか入れたことないですけど……弄びすぎです……か?)

 奥に入れるともう後戻りできないような気がして怖いのでそこまではしていない。

 しかし最近の香奈は、何日かに一遍はこれで慰めないと落ち着けないのだった。

 道具を使うにしろ使わないにしろ、「ひとり遊び」についてはすでに香奈はエキスパートである。 小学校のころから、ネットなどで目一杯知識だけは詰め込んできた。

 TRPGを覚えたのもその頃であり、ダイスも「くとぅるふの呼び声」と同時に手に入れたものだ。

 しかし、当時は回りに一緒にセッションしてくれる人がいなかった。

 ゆえに彼女は、頭の中で話を組み立てるだけで満足しなければならなかったわけで。

「……おかげで、妄想力だけは人一倍になってしまったのです」

 今はTRPGに付き合ってくれる友人もできた。

 テーブルトーク研究会の活動ができるのは嬉しいし、楽しい。

 だけれど、彼女は大抵ゲームマスターだった。

 一番ルールに詳しいのが自分だから仕方ないのだが、でも、と香奈は思う。

「たまには、私だって背景ではなく、主人公になってみたいのですっ……」

 ゲームの中ではなく、自分が今居る、この場所で。

 とは言うものの、現実の壁を前に妄想は立ち止まる、そんな日々の繰り返し。

 もうずっと自分はこのままなのだろうか、と思うこともあるけれど。

「いやっ……いけません、こんなことではっ!まだ見ぬ明日に向かって頑張るのですっ……!」

 ダイスをぎゅっ、と握り締める香奈。

(……そうです。私は、もっと積極的にならなければいけないのです)

 とりあえず、今度は私から仁礼さんを誘ってみよう、と彼女は思った。

 こないだの仁礼の表情を思う。哀しげな瞳を思う。

 彼女の中には硬い氷がある。それを真剣に溶かしたいのなら、こっちから待っていてはいけない。

「でも……私にできるでしょうか?もし、こないだのことで彼女が怒ってたらどうすれば……」

 もくもくといつもの不安と弱気が顔を出すが、今日の香奈は一味違う。

「――運試しなのです」

(ただし、成功確率は70パーセントに設定するのです)

 この辺がまだ弱気だったけど。

 70以下が出れば、仁礼さんは怒っていない怒っていない怒っていない……

「……えいっ」

 おずおずと十面ダイスを二個、床に転がしてみる。

 D100ロール。 ぴたり、と止まった目を確認する。

 ……0のゾロ目だった。

 すなわちファンブル――自動的に失敗。

 香奈はそのままの姿勢で、ベッドからずるずると崩れ落ちる。

(ふぁ……ファンブルですかっ……!)

 とりあえずこの日、ゲームマスターの神様は香奈に優しくないようだった。

「神様……ノーカンになりませんか……?」

 ダイスを弄んだ罰、かもしれない。


 それでも、捨てる神あれば拾う神在り、とはよく言ったもので。

「三橋さん?」

「……は、はいっ!なんでしょう?」

 あれから少しずつ、二人の距離は近づきつつあった。

 おずおずと声をかけ非礼をわびた香奈に、栖香は快く対応して許してくれた。

 むしろ、その後もなにかにつけ腰の引ける香奈に対して、一直線に、飽きもせず何度も誘いをかけてくる。

 そうなれば意志の弱い香奈が誘いを断れるはずもなく、無論それは嬉しいことでもあって。

 現状、何日かに一度、相沢の姿が見えないときなどは二人で昼食を一緒にとるようになっていた。 生憎今日は雨だったので、食堂の一角に二人は場所をとって向かい合っている。

(この状況こそは、私が望んでいたものっ……)

 すなわち、全体として香奈が望む方向に進展しているはず……なのだが。

 香奈自身は嬉しいと思いつつも、この期に及んでいろいろと違和感を感じつつあった。

 多幸感と不安が交互に襲ってくる状況というか。

(とにかく……腹芸が通用しない人ですっ。凄いというか……ある意味馬鹿正直、というか)

 自分を棚に上げて、香奈はそんな事を思う。

 会話における迂遠さと発言の無責任さというものに拠りかかっている香奈に対し、栖香は徹底して発言の明確さに拘った。

 そして他者の発言には基本的に真実性が担保されていると信じていた。

 結果としていえば、栖香には冗談というものが通用しなかった。全く、といってもいい。

 また、好悪、善悪のスイッチの切り替えがはっきりしており、その中間というのは存在しないようだった。

 そういう栖香の認識の中で、香奈の発言はとりあえずすべて善意の方向で受け取ってもらえているらしい。

 すなわち香奈が慮って曖昧な褒め方をしたものでも、それは明確な賛辞なのだ。

 たとえばそれは栖香が最近熱を入れている料理に関する感想であったり、 美術作品に関する意見であったりするのだったが。

(私たち、これでいいんでしょうか……?)

 ――彼女といること。それ自体は嬉しい、とても嬉しくて、楽しい。

 だがそれでも、香奈は虚構の上に築かれた舞台に立っているような危うさを感じていた。

 しかしそれは、いったいどちらの態度が問題なのだろう?

 ちなみに、それはそれとして、香奈は相変わらず朝食を食べられていなかった。

 ただし、空腹に関してはお菓子の隠し場所を増やすことでとりあえずクリアしている。

(……根本的な解決から眼をそらしているのではないかと自分で思わなくもないですが)

 背に腹は変えられないとはよく言ったもので。

 まあ、そんなわけで今の所、状況は香奈にとって大進歩だったのだが、他にも気になることはあった。

 それは、ひょっとして相沢美綺が気を使ってくれているのでは?と言う疑念。

 香奈の気持ちを察して、二人の時間を作ってくれているのではないか、という怯え。

 例によってそれは香奈の考えすぎだった(とはいえ、全く見当外れでもなかった)のだが、それに思い至った時、彼女は真剣に悩んだ。

(……私は、姉妹の親しくなる時間を奪っているのではないでしょうか)

「だとすれば逆に私はお邪魔虫なのではっ……」

「どうしました?食欲が優れないのですか?」

 気がつくと、栖香が不思議そうに香奈をのぞきこんでいる。箸が動いていないのを見咎めたようだ。

「はっ……?いえいえいえッ?なんでもありませんよっ」

「そうですか。ところで、上原さんに唐揚げの作り方を教わったもので、試しに揚げてみたのですが」

「……唐揚げ、ですか?」

 じっと栖香の箸がつまんでいる先の物体を見る。それがどうやら唐揚げであるらしい。

(……黒い。地獄のように黒いですっ!イカスミ入り……のわけはないよね……)

「不恰好ですけど……良かったら味見して戴ければ」

 申し訳なさそうに箸を差し出す栖香。

 問題は外見ではなさそうだったが、香奈にはとてもそんなことは言えず。

「いえええっそんなことはありませんっ、慎んでいただきますっ」

 ぱくり、とそのまま口に頂くと、ややあって。

(……苦っ!辛!そして甘っ!)

 相容れないはずの三つの味が完全に独立して口の中で爆発した。

「如何ですか?」

 しかし、それでも。

 恐る恐るそう聞いて来る栖香に対して、香奈に出来る返事はひとつしかないのだった。

「……美味しいですよ、仁礼さん」

(……なぜでしょう、この緊張感と不安は?一緒にいて、嬉しくて楽しいはずなのに……何故?)

 だから、香奈は気づかない。悩みながらも、気づけない。

 栖香もまた、同じように悩んでいたことに。


 それを見ていたのは、例によって弥生とのばらと高松姉妹。

 やんややんやといつもかびすましい彼女らの眼に宿っているのは微妙な好奇心。

「……餌付け?でもあの料理じゃーちと香奈ちん可哀想じゃん?」

 弥生は香奈の気持ちを深いところまでは知らない。

 いつも怒られていただけに、やや仁礼に対しては斜に構えた見方をしてしまう傾向があった。

「こーら弥生、言い方意地悪すぎ。仁礼さんも打ち解けようと頑張ってるんだよきっと」

 あくまでもやんわりとたしなめるのばら。弥生に最初にブレーキをかけるのは彼女の役目だ。

「そーなのかな?でもまー、すみすみが最初に香奈ちんにいったにのはなんか納得するけどさー」

「なんで?」

「だってさーあの二人けっこー似てるじゃん。猫かぶるとことか建前で生きてるところとかさー。」  確かに弥生に建前は不要のものだろうけど、とのばらは思ったが口には出さず。

「そうかも。まっ、香奈ちんは仁礼さんほど首尾一貫してないと思うけどね」

 この二人には、香奈よりむしろ仁礼が積極的にアプローチしているように見えていた。

 見方を変えれば、それはそれで正しかったのだけども。

「よくも悪くも意志が弱いのだなー、ふんふん」

「「意志薄弱軽佻浮薄♪自縄自縛自慰自爆♪」」

「……けーちょーふはくってどういう意味?」

「知らない……ハーフに、そのうえよりによってこの双子に国語で遅れをとるとは不覚だよっ!」

「お前ら……」

 さらにそれを見ていた教師・滝沢司はとてもがっかりした。主に弥生たちの一般常識に対して。

 しかし、それを指摘するのも可哀想なので、話題の部分だけやんわりとたしなめることにしたわけだが。

「余り人の交友関係をネタにするのは良くないと思うぞ?」

「ありゃ、滝沢ちんに怒られちったよ。まーだけどさ、二人とも不器用だよねー。滝沢ちんもそう思わない?」

 正直、弥生に不器用と言われたらみんなショックを受けそうではあるがそれはともかく。

「ちゃんと先生と呼べ大銀杏……彼女らの何が不器用だって?」

「決まってんじゃん。自分の気持ちに、さー?だからあんなぎくしゃくしてんじゃない?」

「「尻の青い子未熟者♪自慰が過多の子過敏症♪」」

「やめい!年頃の娘さんがそんな言葉を口にするなっ!」

 高松姉妹はきゃははは、とユニゾンで笑いながら去っていった。

 相変わらず意味不明な子らだと司は思いながらも。

「……そうかもしれないな。たまには大銀杏もいい事を言う」

 と、遅ればせながら弥生に同意する。

「でしょでしょ。……でもたまに、は余計だっしょ、滝沢ちん」

「滝沢先生と呼べ」

 ……ホントーにたまに、だが。


「……と言う話があったんだ。まあ、みさきちのことだから既に気づいてるかもだが」

 司から見ても、仁礼と三橋が同席している時はお互いロボットのように硬くなっているように見える。 正直なところ、周辺の人間にも微妙な緊張感が漂うほどだった。

「まーね……うにゃー、ま、その内打ち解けるよっ。香奈ちん気ぃ弱いけど根はいい子だし」

 とその彼女は当面、傍観するつもりのようだ。

 妹がせっかく積極的に自分から動いているところ、自分が口を出すのは躊躇われるのだろう。

 自分とセンセの途中までと似てる、とも言った。言われてみると司もなるほど、と思う。

 さっすが姉妹、と美綺は苦笑いしていたが、ならばそれはつまり。 自分たちのように、互いの本当の気持ちに気づかないと結局、それ以上先には進めないということなのだろうか?

「上手くいくといいなーと思ってるけどねっ」

「……そうか」

「それよりもねー。考えなきゃいけないのは、むしろアレのほう」

 一緒に過ごす時間が増えたという事は、仁礼の行動はそれだけ常に三橋の注目を受けている、ということでもある。

「……調査のことか?」

 放課後の調査。今は雨で休止してはいるが。仁礼との打ち合わせはずっと行っているわけで。

「そのうち香奈ちんには気づかれちゃうかもね。まーそんときはそんときさっ!」

「仲間に引き込むか?」

「そうなったらいいけど……でも、それはアタシじゃなくてすみすみの役目かなっ」

「……なるほどね」

 確かに、そうに違いない。


 相変わらず、外は雨。

 垂れ込める灰色の雲の如く、香奈のテンションは地面すれすれ。

「……憂鬱なのです」

 低気圧のせいだけではない。有体に言って、香奈は途方にくれていたのだ。

 部屋に居ても落ち着かないので、図書室で参考書などを広げてみたものの。

 危惧したとおり、本の内容など一文字たりとも頭に入ってこない。

 ちょっと前から気になっていた件について思考が飛ぶと、そこで脳の回路がループしてしまう。

 放課後の異変。滝沢先生と相沢に上原、そして仁礼。

 最近では本校組の八乙女さんや鷹月さんまでが一緒になって何かをしている。

 香奈は栖香に、雨の日まで集まって何をしているのか聞きたかった。

 しかし、彼女は香奈に一切話してくれない。匂わせる素振りすら見せない。

 こちらが放課後の予定を聞いても、姉と約束があるので、と曖昧な返事をするだけだ。

 嘘ではないにしろ、何か隠しているのは間違いなかった。

「……しかし、問い詰めてもいいものなのでしょうか」

 隠すにはそれなりの理由があるはず。

 相沢から釘を刺されている、という事もありえるだろう。

 誤魔化されたときや嘘をつかれたときのダメージを考えてみる。

(ううっ……立ち直れませんっ……結局、まだ信頼されていないということなのでしょうか?)

 いっそのこと、首魁と思しき相沢に直接聞くべきだろうか。

(いや、それもまた他人行儀なのですっ……うあああ)

 そんな、パントマイムの如く一人身悶える香奈を見咎めたのは。

「……何してるの」

「ひゃああああっ!?」

 例によっていきなり後ろからの声。心臓とかいろいろ飛び出しそうになる。

 と言うかちょっと出た。

 振り返るとそこにはいつも静かな彼女。

「……何だ、小曾川さんですか」

 香奈は必死で心の中に壁を作る。

 彼女は何かと鋭いので、悩みを悟られるといろいろアレだったのだが。

「仁礼?」

 いきなり壁を粉砕された。

「……えええええ?なな何を根拠にっ?ていうか何のことですかっ!」

 小曾川智代美は、ハムスターのように小さい口の端をわずかに吊り上げて呟く。

「……悩み。バレバレ」

 一応、それで微笑みを表現しているらしい。

「バレバレなのですかあっ!?」

 自分はそんなにわかりやすい人間なのだろうか、と香奈は数秒間悩んだが。

 …………。

 反論のしようも無かったので、仕方なくぽつりぽつりと状況を説明する。

「これからどうしたらいいのか、解らないんです……」

 滝沢と相沢の名前が出たときだけ智代美の眉はぴくり、と動いた。

 何やら腑に落ちたらしいが、その後は無言で聞き終える。

 それからしばらく香奈をじっと見つめ、小さく頷くとぼそり、と宣告した。

「呼び出して聞け」

「そそそんなっ……恐れ多い……」

「友達に恐れも遠慮も無いよ」

「……でも」

 貧相な仔犬を哀れむような眼で智代美は香奈を見ると、

「少しだけ、助言」

 顔をぬっ、と近づける。

「……なんですか?」

 そのまま香奈の耳元に口を寄せると、やや強い口調で囁いた。

「好きなら迷わず行くところまで行け」

「…………っ!」

「その道の先達からの、一言」

 それだけ言って、智代美は再び影のように音も無く去っていった。

 ややあって香奈は、言葉の意味に気づく。

「その道、って……違う違う違うんですっ!私は――」

 どう違うのか。

「…………」

 自分が夜な夜な何を考えて一人慰めているか、を思うと。

 あんまり違わなかった。

「どうしましょう……私はどうしたらっ……でも」

 いつかは、隠している理由は知ることになるだろう。

 その時、栖香本人から聞かされるならまだいい。

 でも、もし、他人から真実を聞くまで、自分が何も聞かされなかったとしたらどうだろう?

 ――そんな状況には耐えられない、と思った。

 だから、智代美の後押しがあったとはいえ、香奈は結局自分から行動に出ることにした。

 それは仁礼栖香との関係において、彼女から見せた二つめの前向きな行為だった。

 予報では、夜半に雨は一旦止むらしい。

 それを確認してから、香奈は栖香を探して約束を取り付けた。

 頷いた栖香の顔は――笑っていなかった。

 ……そして、夜10時半。

 消灯後、こっそりと抜け出し約束の場所へ行くと、既に仁礼は静かに佇立していた。

「三橋さん、消灯後の外出は違反ですよ。私を呼び出してどうなさろうと言うのですか」

 香奈を見つめる栖香の眼は鋭い。

 怒りではない、と思った。何かを警戒している眼だ。

「……なら、なぜ何も言わず了承したのです」

「それは……三橋さんの頼みとあれば」

 ……嬉しい、と言いたかったけど、今はそこでくじけている場合ではない。

「その――相沢さんたちと放課後なにをしているのですかっ?」

「……その件ですか。怪しまれているのは承知しておりました。 申し訳ありませんが、今の段階ではお応えできません」

「どうしてですかっ」

「姉との秘密です」

 予想通りの答えだった。だから、香奈は反応してしまった。

「……お姉さんが、相沢さんが大事なのはわかっています。でも」

(……私は、馬鹿だ)

 彼女が怒ると判っているのに、理性より先に感情が言葉になってしまう。

「……私との関係は、大事じゃないんですか!」

「――そんなことは言っておりません!」

 激昂。売り言葉に、買い言葉。 一瞬、赤い炎が吹き上がったように香奈は錯覚する。

 ああ、怒らせてしまった。

 でも、何故だろう。止まらない。

 嘘で関係を塗り固めていたわたしが、気持ちに任せたままの、生の。

 それが正しいかどうかは別だけど、少なくとも感情そのままの言葉を、口にしている。

「大体仁礼さんはいつも私に肝心なことを何一つ話しては――」

「何ですって!それを言うなら、三橋さんだって大事な部分を誤魔化してばかり――」

「やりますか!」

「やると仰るのならば!」

 ……………………。

 はあはあはあはあ。

 数刻の後。

 二人とも膝と両手をついて息を切らしていた。

 燃料切れだった。

 罵倒合戦→睨み合い→掴み合いを経て、倒れこみそうになったところで一旦離れて。

 息を入れてしまった二人に、もはやもう一度喧嘩を始める気力は無かった。

 まだ息を切らしながら、栖香は香奈に、香奈は栖香に問いかける。

 お互い、もうすでに先ほどまでの炎は無い。

「……なぜ、三橋さんは嘘をつくのです」

「……なぜ、仁礼さんは何も言わないのです」

 同時に問い、同時に互いを見る。

 そして同時に、溜息をついた。

 ややあって、ふたりは交互に喋り出す。

「……私、本当は嘘なんかつきたく無いです……だけど、仁礼さんに嫌われたくもないんです」

「わ、私だって……本当は三橋さんに全部話してしまいたいですっ。でも、お姉さま達の」

「だからってどうしたらいいんですかっ!お料理だって褒めたいけど、でもっ」

「そのぐらい!本当の事を言って下されば……そりゃ、その場では傷ついたかもしれませんけども」

「だって私は」

「そんなこと言っても私だって」

「「…………」」

 再び、同時に互いを見て。どちらからともなく。

「「ぷっ……」」

 思わず、吹き出した。

「仁礼さん、酷い顔になってます」

「三橋さんこそ」

「ハンカチ、使います?」

「……そうですね。お借りします」

 そのまま二人は向かい合って、その場に座り込んだ。

 ……そして香奈は栖香にぽつりぽつりと。

 やっとのことで――あるいはついに、と言うべきか。

 自分の気持ちを、語りだす。

「……私は、ずっと仁礼さんを見てて、綺麗でかっこいいなあ、と思ってて」

 ああ。こんな状態になって、ようやく私は。

「ずっと好きだったんです。友達に、なりたかったんです」

 ――言えた。

 かあああああ、と栖香の顔が一気に真っ赤になる。

「わっ、私だってずっとそう思っておりましたっ! 委員長などと皆さんに仇名され、時に落ち込む事もありましたけど」

 声を詰まらせながらも、一気に続ける。

「み、三橋さんがふぉろーを入れてくれた時などがしばしばあって、その都度」

 ――客観的に見ると、恐らく他の級友はあれはフォローになってない、と言ったであろうけど。

 でも少なくとも気持ちだけは、栖香には通じていた、と。

「だから、その気持ちなら三橋さんに負けません!むしろ私が先です!」

「いいえ!私が先です!私なんて一年の最初の中間考査のときから」

「そんなことを言い出したら私など入学式のときに」

 ぎゃあぎゃあぎゃあ。ぎゅいぎゅいぎゅい。

 もはや単なる意地の張り合いだった。

 そして、気がつけばいつの間にか、二人とも笑っていた。

 互いの手を、握っていた。

 そう――結局のところ、彼女たちはこの大いなる回り道を経て、ようやく。

 二人の間のルールを決めることが出来たのだった。

「「もう、これからは遠慮も隠し事も、無しにしましょう――」」


 さて、やや離れた茂みの奥では、いくつかの人影が彼女らに視線を送っていた。

「……何やってんだ二人とも」

(しーっ!今いいとこなんだからっ!うう……おねえちゃんは嬉しいよ妹よっ!)

(みさきちいい加減やめようよここからはもはや出歯亀だよっ! なんかこのまま聞いてたら非常にいたたまれないんだよほら滝沢先生も止めてくださいよっ)

(ちっちっち。かなっぺ、アタシはまさにそのいたたまれない瞬間を写真に捉えたいのだよっ! そして卒業式の日にA3サイズですみすみにばーん、と見せてあげるのだっ!)

(動機はただの悪戯ですか馬鹿ですかっ!)

(某無乳っ子みたいなこと言ってる場合じゃないよかなっぺっ。ほら録音録音!)

(かなっぺ言うなっ……って、集音マイクとデジタルレコーダー? いつのまにこんなものまでこんなものまでぇっ!)

(……それはそうと、こんな暗いのにフラッシュなしで写真ちゃんと撮れるのか)

(だーいじゃうぶ!通販さんに借りた米軍仕様の超超高感度カメラでばっちりさっ! まっくらやみでも天然色完全再現可能な優れものだよっ)

 そこに、カメラをぺたぺたと触る二組のましろい手とステレオの囁き。

((貸して♪貸して♪撮って切り貼り♪トリミングしてコラージュ♪))

(ひゃああああああっ!?)

(しっ……高松姉妹?)

 そこにかぶさるのはまた違う娘たちの声。

 まずはいつものコンビ弥生とのばら、それに加えて今日は智代美と貴美子の百合コンビもいる。

 何故か貴美子は頬を染めてそわそわしながら三橋たちを見ていた。

「だけじゃないよ相沢っ!やーははは!面白いねーのばら」

(しっ!弥生でかい声ださない!気づかれちゃうよ)

(多分、もう遅いと思う)

(いえ、あの二人、お互いに夢中で全く気づいてませんわ。はあ……仁礼さんが羨ま……)

 高藤陀貴美子はどちらかというと香奈のほうが好みらしい。

(……悪戯したくなった?)

(ふふ、冗談ですよ。私はいつだって智代美さんひとすじですわ)

(……そう)

 彼女らの後ろからぬうっと現れたのは岡本瑠璃阿。

 何故か神千晶を背中に背負った彼女は何処となく切ない眼で呟く。

(いいなー、あの二人……)

 そして背負われた神は。

(すかー……すぴー……)

 いつものように寝ていた。

 勢揃いに呆然とする奏。

(はあああっみんないますみんないますよっ)

(だーってさー。あの二人中途中から庭中に響くような声で喋るんだもん。そりゃみんな気づくっての)

(坂水でも来たら誘導しようと思って出てきたんだけどさ。滝沢先生ならまーいいかな)

((すでに骨抜き♪人畜無害甲斐性無し♪))

(同意)

(僭越ながら同意致しますわ)

(……そこはかとなく馬鹿にされているような気がする)

(むしろあからさまにと言うべきではっ)

(センセ、気にしたら負け負けっ)

 この大盛り上がりからすると、なんだかんだでみんなあの二人が心配だったらしい。

(ああっ見てみてっ!決定的瞬間かもっ……)

(むむ……やれ!そこだっ!いけっ!我が妹赤い彗星っ!)

(もっと近づけ香奈ちんっ!強く激しく抱きしめあうのだっ!)

 単に面白いからかもしれないが。

(……あのあの皆さんやっぱり良くないよ良くないよみさきちを止めてくださいよ滝沢先生……先生?)

(むむ……これは……いやそうじゃないぞ仁礼!その手はもっとこう……)

 教師はみさきちと一緒になって熱中していた。

 はああ……と脱力した彼女に、背後から静かな声がかかる。

「上原さん、お茶でもいかがですか?」

(はは榛葉さんっ?)

 いつの間に、夜闇から現れ出でたのか。

 常と変わらぬ笑顔で手に持っているのは、中くらいの大きさの魔法瓶。

 榛葉邑那は、魔法のようにどこかから紙コップを取り出して奏に持たせると、紙コップ目掛けてたぽたぽと紅茶を注いだ。

「はい、どうぞ」

 やや熱めだがコップが持てないほどではない、絶妙の温度だった。

(あ、ありがとうございます……)

 こくこくこく。

 熱さもほとんど気にならぬ美味しさに、奏はほぼ一気に飲み干してしまう。

(はあ、結構なお手前で……じゃなくてっ! 良識ある榛葉さんまで何故このような真似をっ?)

 実際、生き返るかと思うほどに美味しかったのだがそれはともかく。

「私は温室での作業が長引きまして、今引き上げてきたところですが? なにやらこちらのほうが騒がしかったので……ちょっとした好奇心でしょうか」

 至って普段どおりの口調で邑那は答える。

 その落ち着いた声は、特に声をひそめずとも何故か周りに響くことはなかった。

(ではなぜわざわざ魔法瓶にお茶をっ)

「部屋でアイスティーにでもしようかと」

(……嘘です論破できないけど多分絶対嘘ですっ)

 それならばこの紙コップは何故携行していたのかと問い詰めたかったけども。

 それもまあ良しとして。

「……では、あの二人の決定的瞬間も?」

「ええ、楽しく拝見させていただきました。 ところで、そのお二人はもう行ってしまわれたようですが」

「……え?」

 振り返ると、仁礼と三橋の姿はすでに何処かに消えていた。

 さらに気がつけば、さっきまでの出歯亀たちも三々五々、思い思いの方向に散ってゆくようだ。

寮の方向に行く者、林に消える者など様々だったが、それはもう詮索しても致し方あるまい。

(……そういえば、岡本さんはなぜ神さんを背負っていたのでしょう)

 などといろいろ疑問はあるが、とりあえずこのイベントも終わったようだ。

 みさきちは滝沢先生となにやら楽しげに話しながら寮の方向へ歩いていくし。

「……ううっ……なんとなくわたしだけ損した気分ですですっ」

「もう一杯、いかがですか?」

「……頂きます」

 再びこくこく、と飲み干した後、帰りましょうか、と力なく奏は邑那に言った。

「それがよろしいかと」

 邑那は、ずっといつもの穏かな微笑みを浮かべていた。

 ふと、奏は思う。今日まだ見ていない人がいたようないなかったような。

「……あれ?そういえば」

「どうなさいました?」

「通販さん……以外は、大体みんな来てましたよね?」

「みなさん来ていたのではないでしょうか? 通販さんは相沢さんと画像加工するときにでも見る、と言っていましたね」

「……やっぱり榛葉さんは最初からみさきちの企みを知ってたんだそうなんだ」

「私は、温室でお二人が打ち合わせをしているのを小耳にはさんだだけですよ」

 ……まあ、それは建前として認めるとして。

「それじゃやっっぱりほぼ全員だったんですね」

「ええ。主だった方はほぼ居ましたね」

「……みんな、暇なんですね」

「そうかもしれませんね」

 こんな学院だから、とはあえて二人とも口にしない。

 この学院に居るからこそ、会えた友人がいる。それを二人とも良く知っていたから。

 しかし、榛葉とゆっくりその場を立ち去った後も、奏はずっと。

「……全員だよねだったよね?」

 誰かが足りないような気がしていたが、結局その日は最後まで思い出せなかった。


 ――ちなみに。

 溝呂木輝陽は全員居なくなった後、そっと草葉の陰から出てきて。

 みんなが立っていた場所を何回も見回し。

 溜息をつくと、肩を落としてとぼとぼと寮へ戻っていった。

 ……難儀な娘さんである。

 彼女にも願わくば、それなりに明るい未来が与えられんことを。


 ――それは出歯亀たちが聞き逃した、二人の会話。

「三橋さん」

「はっ、はい?」

「その。今度の文化祭のフォークダンス、なのですけど」

「……はい」

「私と……踊っていただけないでしょうか?」

 頬をほんのり染めて、仁礼栖香は三橋香奈をまっすぐ見て、そう言った。

 香奈もまた、彼女をまっすぐ見つめて、そして思う。

 ――多分二人とも、「良く出来た子」からは本当は程遠くて。

 弱さが自分で許せなくて。でもそれを真っ直ぐ見てこなかった。

 自分の弱い部分を直そうとするのではなく、蓋をして隠してしまおうとした。

 仁礼さんはもうそこから抜け出しつつあるけれど、私のそれは、あまりにも沢山ありすぎて。

 今すぐ全てを克服するのは、とても難しい事だろう。

 私はこれからもあたふたして誤魔化して、そしてその度に落ち込むんだろう。

 でも、それでもいつか、貴方のようになれればいいと思うから。

 未来の私が、貴方のそばに立って居られるように。

 私は、変わりたいと思う。

 彼女と一緒に、成長していきたいと思う。

 だから、今度こそ臆せず、素直に。

 笑顔で答えよう。

「はいっ!喜んで!」


 そんな彼女たちには。

 たとえどこかで神様が、何回ダイスを振ったとしても。

 きっと、賑やかで優しい未来が待っている――


                    「Cherry Girls」 end.



 おまけ。


 その一「鍵の壊れた教室にて」


 香奈「きっきっキスですね!そう!舌を入れるのは、淑女のキスなのですっ!」※大嘘

 栖香「そうなのですか……立派なレディになるためには欠かせないのですね」※真剣

 香「はははいっ!そうなんです!セレブでレディには必須なんです!」※もはや引っ込みがつかない

 栖「では三橋さん、早速実践してみましょう!」

 香「えっ……いやいやはっはいっ!仁礼さん、頑張りましょう!」

 奏(だまされてる仁礼さんだまされてるよっ)

 暁(これが若さか……)※咄嗟に隠れた二人



 その二「図書室にて」


 何やら本を読みながら。

 栖香「三橋さん?」

 香奈「はっはい?」

 栖「その……自慰、とはどういう行為をさすのですか?」

 香「なななななぜそんな単語をっ?」

 栖「え……?その、実は図書室の奥にこんな本が(以下略)」

 香「……ひょっとして、全く知識をお持ちではない?」

 栖「恥ずかしながら……初めて聞きました」

 香「ででではた、試しにやっ……やってみましょうか?今晩でもっ」

 栖「そ……そうですね……?」※まだよく解っていない

 香「でっではその後ほど……私の部屋で……っ!」

 その後、談話室にて。

 通販さん「盗聴器?」

 美綺「あるかな?」

 通「……ある」

 美「買ったっ」

 通「かっぱーえびえびのしそ梅わさびカレー味」

 美「おっけー。商談成立っと」

 通「何に使う気だ」

 美「ふふん、日本の正しいお姉ちゃんには妹の成長を把握する義務があるのさっ」

 通「……売る気なら顧客には心当たりが」

 美「……ぎくっ」


 ……おそまつでした。