「チョコをあげます」
――はい?
今この女、なんて言った?
僕の自宅――である。
今日は後期日程の受験に備えて勉強会。
先生役は勿論彼女――戦場ヶ原ひたぎ。
とは言え――いや、だからこそ潤いなど期待すべくもない。
期待すればするだけ裏返される、そんな時間になる筈だったのだが。
思い起こせば確かに今日は二月十四日。
全国的にバレンタインデーには違いない。
「え?あ……さんきゅ」
だが正直、戦場ヶ原が素直にチョコをくれる筈が無いと――
「違うわね……こうじゃないわ。チョコを……」
違うのかよ。
「チョコをもらって……いただけませんか?」
「………………」
「チョコを受け取ったら……どう……」
「………………」
こいつ……!
まるで成長していないっ……!
いや、ある意味予想通りだが。
「チョコを受け取りなさい、阿良々木くん」
「……ありがとうございますひたぎさん」
何故かうなだれてしまう僕。
ここしばらく受けてきたスパルタ教育で奴隷根性が染み付いてしまったらしい。
それでも、チョコをもらえると聴いただけでやはり嬉しくなってしまうのは男子の性だろうか。
「……卑屈ね。らしくないわ」
いつもの無表情で、戦場ヶ原は首をかしげる。
「この数ヶ月、馬車馬のように笞と鞭で追い立ててあげたのだから、もっと男らしく堂々と私に跪いて感謝なさい」
「いや、それは男らしくはないだろう」
そもそもムチしか無かったのか。
そんな気はしてたけど。
「何よ。それなら真の男である阿良々木くんはチョコを貰うためなら五体投地した上に三跪九叩してくれるとでも言うの?」
お前はどこの仏陀か皇帝ですか。
「僕が卑屈になったとすればその原因は間違いなくお前にあるわけだが……」
「そう言えば、聞いたわよ、阿良々木くん」
「……何を?」
え?なんだこの振りは。
「――羽川さんから、春休みのことを、詳しく」
――――――!
この状況でっ……!
何と言う死亡フラグッ……!
僕が墓場まで持って行く予定だった秘密をっ……!
僕の全身からどっと冷や汗が滲む。
……で。
「ど……どこまで詳しく聞いた……の……でしょうか?」
デフォルトで敬語になっていた。
「そうね――色々教えてもらったわ」
例えば、吸血鬼について。
すなわち忍の前身、ハートアンダーブレードの話とか――
まあ、それぐらいなら――と思った僕は当然ながら甘かったわけで。
「羽川さんに対して阿良々木くんがした恥ずべき行為の数々、とか」
……やっぱり僕は色々と覚悟しなくてはいけないらしい。
死刑、いや、僕にとっては私刑宣告か――に等しい言葉を淡々と連ねる戦場ヶ原だった。
「まあ、詳しくは阿良々木くんに悪いから、と教えてくれなかったけれど――少々意地悪な話よね。まあ、彼女に他意は無いのだろうけど――」
私は生殺しだわ、と戦場ヶ原はあくまで無表情のまま言う。
ああ。ひたぎさん、だいぶ怒ってる……
「だから阿良々木くん。きちんと弁明出来ないなら開いて血抜きしてから干し殺すわよ」
「それは僕が今まで聞いた中でもトップクラスにマニアックな殺害方法だな……」
寒干しにされる僕……保存食なのか?
どんな北国が舞台の猟奇ミステリーなんだ……
「僕は塩揉みされて軒から吊るされるのか……?」
ちなみにこの家に干し魚を吊るせるような軒はない。
「北海道には回転式の魚干し機というのがあるらしいわよ」
「何故そんな殊更にマニアックな機械を知っている!」
イカや魚の開きがぐるぐる廻っている光景は確かにテレビで見たことあるけどさあ!
「阿良々木くんで色々妄想していたときに調べたのよ。蟹とかと一緒に」
「どんな妄想がその機械と結びつくんだ!」
蟹は確かに北国の産物ではあるだろうけど。
「まあ、干し殺すというのは今の所はあくまでも冗談だけど」
留保付きとはいえ干し殺される可能性、あるんだ……
そんな戦場ヶ原が僕を凝視して、目をきゅうっ、と細めた。
「それはそうと――何故、腰を浮かせているのかしら?」
文字通り針のような視線に、僕は中腰のまま縫いとめられたように固まってしまう。
「いや……ちょっとお茶でも淹れてこようかと……」
ひゅん、と空気を裂く音と同時に、千枚通しが壁に突き刺さった。
……僕の耳をぎりぎり掠めて。
「落ち着いて坐ったらどうなの、パンツとおっぱいが大好きな阿良々木くん」
「よく考えたら、まだあんまり喉渇いてなかったな!」
今のやりとりでカラカラになったけど。
――ああ、と僕は死を覚悟する。
委員長……そこまで話しちゃったんだ……
つーか詳しくは、って……既に最重要部分が戦場ヶ原に知られてるってことじゃん!
何故教えたっ……羽川翼っ……!
よりによって、一番教えてはいけない奴にっ……!
場合によってはおまえ自身にも死亡フラグが立つというのにっ……!
「坐りなさい」
ハートマン軍曹の如く断固として容赦のない命令。
「はい……」
僕は既にゾンビになった気分で、ぎくしゃくとその場に坐りなおす。
その間に、戦場ヶ原はポケットから取り出したあれこれをゆっくりと順番に、ちゃぶ台の上に一つずつ並べていた。
よく尖った鉛筆。三角定規、ホッチキス、コンパス。ペーパーナイフ、カッターナイフ、彫刻刀。後に行くにつれどんどん剣呑になっていく。
しかも全て、先端が僕のほうを向いている……
「そんなに僕を先端恐怖症にしたいのか……」
「まさか」
ふ、と笑う戦場ヶ原。
「字が違うわ、阿良々木君。症例ではなくて瘴癘よ」
「風土病に陥りそうな字面だな……」
戦場ヶ原特有の風土病。
死亡率は確実に九割以上だろう。
「さあ、壁や身体に穴を増やしたくなかったら弁明してみなさい」
謝罪と賠償だけは聞いてあげるわ、と戦場ヶ原は再び表情を消すと改めて宣言した。
「なんだその恫喝外交は!」
しかもこの女、僕の身体と壁を無造作に並列しやがった……
「返答次第では核を撃つわよ」
「どこにスイッチがっ?」
僕の彼女は瞬時にデフコン1まで移行出来るらしい。
「まあ、阿良々木くんが話したくないと言うならそれでもいいけれど」
今度は薄く笑みを浮かべる戦場ヶ原。怖い。
間違いなく本気の笑みだ……
「その場合、私はこの装備のまま羽川さんに会いに行くことになるわね……」
「………………」
本気の恫喝ですらなかった。
「あなたにとって『大切な友人』である彼女が『偶然』怪我をするところなんて――見たくないわよね?阿良々木くん」
セクハラでもDVでもない、純粋な犯罪行為としての脅迫だった。
この女……この女だけは……っ!
何故僕は戦場ヶ原が好きなのだろう……と根源的な疑問を抱きたくなる状況だった。
しかし、勿論元はと言えば悪いのは僕なわけで。
……とは言え実際の所、あの状況下における僕の行動をどう弁明しろというのか。
僕があの時羽川と交した会話の記憶を辿ってみる。
「………………」
どう弁明のしようもなかった。
どう考えてもセクハラでした。
改めてごめんなさい。
――と言うわけで、結局。
僕は春休みの出来事について戦場ヶ原に話す羽目になった。
外面的な出来事から、僕の心の動揺に至るまで、余さず。
ただし、ゴールデンウィークと文化祭前の出来事についてはあくまで聞かれた範囲に留めた。
――というのも。
「結局、羽川さんが言うには、全ての記憶が戻ったわけではない――そういうことらしいわ」
果たしてそれが真実なのか、何かを慮って言わないだけなのかは判らないけれど。
そう戦場ヶ原は言う。
「でも、阿良々木君から受けた仕打ちはしっかり憶えていたそうよ」
「すいません。何と言われようと返す言葉もありません。調子に乗っていましたが今は反省しています」
ああ、羽川に言った台詞を猿のように繰り返す僕……
とは言え、これ以上戦場ヶ原の怒りに油を注ぐのは避けたかった。
何が余計な一言とも判断がつかない状況では、燎原の大火になりかねない種火を自ら蒔くのは愚の骨頂だ。
「しかし、それにしても――」
戦場ヶ原はふう、とわざとらしい溜息をつく。
「何だ……ですか?」
「私、今日ほど阿良々木君を好きで良かったと思った事はないわ」
本来なら嬉しいはずの言葉が、今の僕には罵倒にしか聞こえません……
「でもまあ――嘘はついていないようだし」
一応、弁明を信じてはくれるらしい。
「羽川さんの話と僅かでも食い違えば、あと一時間は問い詰める予定だったのだけど」
それ以前に信用されていなかったらしい。
しかし――と、僕は疑問を抱く。
何故、今になって羽川は、戦場ヶ原にそれを明かしたのだろう。
――卒業後、羽川が旅に出る予定なのは知っている。
文化祭以降、僕らの関係は一貫して良好だった――と、思う。
でも、それは僕自身と――恐らくはそれ以上に、羽川と戦場ヶ原が意識して良好に保とうとした結果の友人関係だったのだ、とも。
僕は羽川との間の見えない壁を少しでも取り除こうと努力したし。
恐らく、僕の知らない所で女同士の話もあったのではないかと思う。
――その結果が、羽川が戦場ヶ原に春休みの出来事を告げさせたとするなら。
彼女の中で、何らかの決着がついたと――そういう事なのだろうか。
それとも――
「なあ、戦場ヶ原」
「何よ」
「お前が羽川から聴いたのって――それで、全部か?」
「――阿良々木くんは漢同士の約束、とかいう類の秘密を、べらべら他人に話すのかしら?」
「……いや、話さないけどさ」
そもそも男に桃園の誓いを交すような友人は居ないけど。
しかも何気なく他人扱いされてるような気もするけど。
――だけど、戦場ヶ原のその言葉が、何よりも明確な答えだった。
なら――僕は少なくとも、それを今知る必要はないのだろう。
もし僕が知るべきことなら、羽川が僕自身に告げるはず。
あいつはそういう奴だから。
あいつは、いつでも何でも知っていて。
だけど、決して言いたいだけのことは言わない奴なのだから――
黙り込んだ僕をじっと見ていた戦場ヶ原は、ぼそりと呟く。
「しかし――男というのは度し難いわね。胸なんて揉んで楽しいものでもないでしょうに」
「いやそれは違うぞ、ひたぎさん」
例え品性をさらに疑われようとも、そこは反論せざるを得ない僕だった。
「あら。生意気に反論するのね。おっぱい星人の阿良々木暦くん」
「もはや説得力ゼロだからそう呼ばれるのは否定しないが!男としてそれは違うと言わざるを得ないな!」
「ふむ、痴漢行為を正当化しようというわけね――いいわ、敢えて乗ってあげましょう」
――え?
「友人である羽川さんの胸でも揉みたくなる、と言うのなら――恋人である私の胸は、阿良々木くんにとってどうなのかしら?」
「――――――!」
なんという罠っ!
引くも進むも待つのは死の影の谷っ……
「どうなのかしらね――揉みたい?阿良々木くん」
しかし……ここで揉めないなどと答えた日には、より酷い事態が待っているような気もする。
「も……もみたい、です……」
「阿良々木くんは自らおっぱい星人だと認めるのね?」
「少なくとも僕はおっぱい星人だからお前の胸を揉みたいわけじゃない!」
「あら――私だから揉みたいというわけ?」
――あれ?僕はそこで我に返る。
どさくさにまぎれて――僕、なんか凄いこと言ってないか?
「――それは、結構嬉しい言葉だけど」
……いつのまにか、戦場ヶ原が隣に坐っていることに気づいた。
「私より先に羽川さんが揉ませてくれる、と言ったら……やっぱりそちらも揉みたくなるわよね?」
ちょ――ひたぎさん!
何故僕にしなだれかかる……しかも、しかもっ!
何故僕の肘に胸を押し付けるっ……!
「――先に記憶を植えつけておけば、比較しようなどと思う度に罪悪感に囚われるでしょう?そういう事」
……つまり羽川の胸と比較することなど許さない、と言いたいのか。
まあ、確かに比較したら流石に可哀想だ。
間違っても口には出せないが。
しかし、そんな戦場ヶ原にも対抗心はあったらしい――この場合、僕としては喜んでいいものかどうなのか、という感じだけど。
「まあ、神原となら比較しても許してあげる。お望みならノーブラで居るように伝えておくわ」
「その許可は絶対最悪の結果を招くだろ!どんなハニートラップだよ!」
一瞬「許してあげる」という言葉を信じたくなった自分が悲しい。
いや、神原はむしろ喜んでノーブラになりそうだが……後が怖すぎる。
「で、どうなの――揉まないの?」
「……あの、光栄ですが、今はちょっと厳しいと言いますか」
ここでもどうやら僕はチキンだった。
あらそう、と戦場ヶ原はあっさり離れる。
「欲が無いわね。今日は私、ノーブラだったのに」
「………………」
えええええ。
「童貞は楽でいいわ」
「それは思ってても口に出すな!」
やはりこの女は戦場ヶ原以外の何者でもなかった……
まあ、解っちゃいたけれど。
「さて。話がいつのまにか逸れてしまったわね」
……えーと、そもそも何の話だったっけ。
ああ、そうか。チョコレートの話でしたね……
「つーか、逸脱したのはお前だろう……」
戦場ヶ原は僕のぼやきを例によって無視して、懐から小箱を取り出すと。
「はい、どうぞ、阿良々木くん」
――目の前に差し出された小箱を、僕はゆっくりと受け取る。
「……開けてみて、いいか?」
「お好きなように」
紙箱の中には、ハート型のチョコレートが八個、綺麗に並んでいた。
おお……
思ったよりずっとまともだ……
「今失礼なことを考えたわね」
「……そんなことねえよ」
ごめんなさい。その通りです。
「……まあいいわ。とっとと食べちゃって」
あれ?何か扱いがぞんざいな気がする……
こういうチョコって、普通「じっくり味わって食べてね♪」とか何とか。
そういう振りがあるべきじゃないのか?
いや、戦場ヶ原が語尾に♪を付けて喋るのは僕も想像したくないけど、なんか寂しい……いや。
ひょっとして――今までの流れを考えるに。
……このチョコ、何か仕掛けがあるのでは?
「……毒は入っていないわよ」
表情を読まれていた。
「……戦場ヶ原、僕の眼を見てもう一度言ってみろ」
「嫌よ。早く食べなさい」
「まあ、さすがに実際に何か入ってると思ってないけどさ……」
「『毒は』入っていないわよ」
横を向いたまま戦場ヶ原は繰り返す。
……何か入ってるのは否定しないんだな。
まあ、とは言え。ここまできたら、躊躇しても仕方ない。
ぱくり、と口に放り込む。
……甘い。
ちょっと甘すぎる気もするが――おお、美味い。
戦場ヶ原の料理の腕から予測していたよりは、ずっと普通に――あれ?
舌に触れた何かを掌に吐き出す。
「……おみくじ?」
耐水ペーパーらしきものを結んだものが入っていた。
戦場ヶ原をもう一度見る。
相変わらず、横を向いたまま。
「………………」
無言で、僕は結び目を解く。
……小吉、と書いてあった。
「微妙にしょぼー!」
「……あら、それを最初に引いたのね。流石阿良々木くん」
「流石ってどういう意味だよ……これ、ひょっとして全部に?」
「ええ、ちゃんと大凶も入っているわ」
「……つーことは、七種類全部?」
「ええ」
わざわざ大凶を入れる必要ってあったのだろうか……?
「まあいいけどさ。あり――」
途中まで出た言葉を飲み込んで、僕はもう一度、紙を見直した。
……なら、なんでチョコは八個なんだ?
おみくじは普通七種類――すなわち大吉、中吉、小吉、吉、末吉、凶、大凶。
そしてこれは小吉――つまり、上から三番目の紙。
そう気付いてから改めてよく見てみれば、漢字で小吉と書かれた下には。
小さな――とても小さな、アルファベットのV。
ああ。そういうことか――戦場ヶ原。
しかし、そうすると?
「……大吉が二枚あるのか?」
「さあ――どうかしらね」
「じゃあ……一緒に食べてみようぜ。どっちが大吉を先に引くか」
「………………」
「じゃないと、答えが確かめられない」
「……一文字解ったなら、予想するには充分じゃなくて?」
今日初めて、戦場ヶ原が僕に動揺を見せた――それが、嬉しい。
「……どうかな。いつも僕の予想を超えるのが戦場ヶ原だろ?」
無言。それ自体が返答。
わずかに――ほんのわずかに、頬に赤みが差している。
ああ。なんだかんだ言っても。
やっぱり僕は――こいつが好きすぎる。
「……こういうものは贈り主の居ないところで見るものじゃないかしら」
「……今更何を言ってるんだ」
そもそも話を振ったのはお前だろうと。
……そうして、僕たちは。
二人で、ゆっくりとチョコを食べて。
アルファベットの羅列を完成させたのだった。
答えは――まあ、敢えて言う必要も無いだろう。
――ちなみに、大吉は二枚とも戦場ヶ原が引いた。
「試験がまた不安になってきたんだが、ひたぎさん……」
だが――なんとかなりそうだ、とも思う。
何故なら――戦場ヶ原がいつもの平坦な口調で、宣言したから。
「安心なさい。神頼みなんて所詮気休めに過ぎないわ」
……いや、おみくじ仕込んだ本人がそう言うのは流石にどうかと。
「大体、私が幸せな大学生活を送ることが既に決定している以上、阿良々木くんも幸せになると決まっているのよ」
――全く。何と言う身勝手で強引で、それでいて真っ直ぐな言葉。
でも、まあ。だから。
戦場ヶ原がそう言うのなら、信じてもいいかもしれない。
「だから、うろたえたり無駄な不安に怯える前に勉強しましょうね、阿良々木くん」
「………………」
最後の一言で、今日が勉強会だったことを思い出した僕だった。
――ちなみに、その後の会話。
「勉強する気がないなら9:1の比率で見捨てるわよ」
「前より見捨てる比率が上がってるのはどういうことだ!」
「大丈夫。死力を尽くしてもらうから」
「尽くすのはあくまで僕なんだな……」
――ともあれ。
あとしばらくは、こんな日々が続くのだろう。
それはそれで――幸せな時間に、違いない。
「こよみバレンタイン」end.