学内ソフトボールも無事終了した数日後。僕は職員室で悩んでいた。
先日の一件で理事長に四千万円を支払わねばならない、その算段だった。
通常なら想像しただけで眩暈のする金額ではあるが、幸い手元にある彫刻を売れば一括で払えてしまうらしい。
回りくどい真似をした理事長は意地っ張りだとは思うが、僕としては彼女の見せた度量に素直に感謝すべきだろう。
従って、あまり待たせるのは避けたいところだが、生憎売るにしても僕には適切なつてがない。
そもそも六千万円をポンと出せるような知人が、大学を出たての新人教師に居るはずもないわけで。
美術担当の暁先生ならお金持ちの好事家を知らぬとも限らないが、理事長と結城も関わった話を相談するのは少々躊躇われる。
と、すると。
結局、一番手近で詳しいと思われる関係者に聞くしかあるまい。
正直、本末転倒な気もするのだが……
「というわけで」
「はいはーい?」
「はいは一回だ、結城」
「はーい!」
「……続けていいか?」
「どうぞ」
結城ちとせはくすくすと笑っている。やり取りだけで可笑しいらしい。笑い上戸なのだろうか?
授業の後呼び止めて用件を伝え、使われていない教室で彼女と待ち合わせた。
笑いが止んだのを見計らって用件を切り出す。
「先日から僕の手にある彫刻についてのことなんだが」
「はい。『夕暮れと虹』ですね」
「そうそう。あれを買ってくれそうな人に、心当たりはないかと思って」
「私に、ですか」
「うん。結城なら、お父さんの仕事上、そういう人と付き合いが合ってもおかしくないかな、と」
「せんせ、だから私があの時払うって……ごめん、それはナシだったね、先生」
「いや……確かに君に頼むのは正直申し訳ないとは思うんだがな。それはそれで、どうだろう」
「そーですね……、しょーじき私も、あれからちょっと心配だったんですよぉ。大丈夫かなーって」
「大丈夫とは?」
「あれ、結構有名な品ですから。先生が直接鑑定士に持ち込んだりしたら贋作を疑われたりする可能性もあるかな、って」
「それは僕が犯罪者に見えるということか?」
「あははー、そじゃなくって、ああいう品は本来名の知れたバイヤーしか扱わないし、扱えないってことですよ。鑑定書と現物だけでは信用されづらい、信頼できる人の紹介があって、始めて手を出せる品ってことです」
「成程。僕もあてが無くて悩んでいたところだったんだが」
「リーダさんに頼んで、紹介してもらったらどうですか?あの方は出入り業者の管理も携わってますし」
「うーん。それも考えたんだが」
理事長をなだめてもらっただけでも充分世話になっているしなあ。
結城はそんな僕をじっと見ていたが、急に真面目な顔になって尋ねる。
「せんせ、私のクマさん、ちゃんと見てる?」
彼女の宝物である熊の抱き枕は今、理事長の品の代わりとして廊下に鎮座ましましている。
最初こそ奇異の目で見られたものの、今ではすでに風景の一部と化していた。
廊下だけに汚れてしまうのを僕は危惧していたのだが、そこは結城も飼い主(?)だけあって気をつけているようだ。
「うん?無論見らいでか。ちゃんと毎日掃除もしてるな。偉いぞ」
「えへへへ……とーぜんだよ。私の一番大事な友達なんだから。毎日ダイソンでホコリとってるし」
掃除機でゴミ吸ってるのか……形が崩れたりはしないのだろうか。
「友達、か」
飼い主より結城の自己評価は下らしい。
「そう!ずっと一緒だったのにこーなっちゃったから三日ぐらい全然眠れなかったんだよ!おかげで眼のしたにクマできちゃって」
「……」
「アレ、面白くなかった?せんせ。コレはね、熊とクマをかけた」
「解ってる、解ってるから解説はいい!傷を広げるな!」
「まあ最近は眠れるけど。えへへ。そか、そーなんだ、ちゃんと見てくれてるんだね……」
いきなり後ろを向いてしまった。照れてるのか?
「当然だ。僕は君の担任教師だからな」
「――担任、教師。……私の」
言葉をかみ含めるように繰り返してから、彼女は振り返ってにこりと笑った。
あれ?
僕はその時、初めて結城の笑顔を見たような気がした。何故だろう?
今まで、日常でも授業でも、いつも級友と笑っている彼女を見ていたはずなのに。
「……そだね。せっかく、リーダさんより私を頼ってくれたんだし、断るのは失礼だよね。そもそも私が原因なんだし」
「いや、僕としても無理にとは」
「別に無理じゃないよー?お父さん、私にはだだ甘だから頼むのはへーき。でも」
「でも?」
「お父さんには、私がりじちょーのあれ割っちゃったのヒミツにしといてね」
ふむ、結城としては当然の心配だな。
「むむ、生徒との間に秘密を持ってしまった!僕と言う男は教師失格!」
「あれれ、私の先生がいきなり失格教師になっちゃった……さよーならー!、滝沢先生」
「おまえも意外とノリがいいのな……まあ、当然だ。生徒の秘密は守るぞ」
「えへへ。解った。私も秘密は守る人だよ。それじゃ任せて!」
何故か軍隊式の敬礼をして、結城は去っていった。笑顔の残像を、僕に残して。
僕はずっと後になるまで気づかなかった。
彼女がいつも笑っていた理由に。
彼女が残した言葉の、本当の意味に。
「――私も、秘密は守る人だよ」
女性の部屋に入るのは気が引ける。それがたとえ担任の生徒であっても。
いや、教師としてはだからこそ、と言い換えるべきかもしれない。
しかし、僕はその日、入った瞬間にそうした遠慮をすべて忘れていた。
「――なんじゃこりゃ?」
学生用の部屋はけして狭くはない。ないはずだ。
よっぽど散らかしている人間でない限り、本来なら、人を迎えるスペースぐらい確保するのは余裕のはずである。
しかし、結城ちとせの部屋は、僕の想像を絶していた。
汚いわけではない。散らかっているわけでもない。だがしかし。だがしかし!
部屋の壁という壁に。棚に。床に。果ては天井にまで。
あらゆる場所に鎮座するもこもこしてふわふわしてやわらかいものたち。
それは文字通り、空間を埋め尽くしていた。
ベッドまで一本の道がある。そこだけ床が見えた。流しまで、ユニットバスまで、以下同文。
「えへへー、ゴメンね?せんせ。今ちゃぶ台だすから」
よいしょよいしょ、と律儀に一人(?)ずつぬいぐるみをよけて、ちとせは壁に立てかけてあったちゃぶ台を取り出す。
「なあ、結城……お前、普段この部屋でどう過ごしてるんだ?」
「ええ?ふつーですよ?お茶飲んだりお菓子食べたり本読んだり」
「この……ぬいぐるみたちにこぼしたりしないのか?」
「たまにありますよ?そんなときはお風呂に一緒に入るんですよぉ。ですから乾燥機は自前で持ってるんです」
言われて見るとユニットバスのそばに小型の乾燥機があった。……その上にもぬいぐるみがいるが。
「先生は頭が痛いよ……」
某女流SF作家の部屋がかつてこのようであったと読んだ記憶があるが……この部屋はそれ以上かもしれない。
結城……おそろしい子っ……!
天井を見上げると、どうやら何本も渡したロープ……物干し用のものだろうか?にあるものはくくられ、あるものは吊るされ、
またあるものは引っ掛けられたこれまたいくつものぬいぐるみが僕を見下ろしていた。
普通の鳥だのももんがだのはまあ理解できるのだが、中にはかなり名状し難いものもあったりして落ち着かない。その中の一つをつい凝視すると、なんとなくその眼が光ったような……気が。
「眼があっちゃったよ……いや気の迷いだ!僕は何も見ていない!」
「え?ああ、それはばいあくへーといってですね」
「いや説明はいらないから」
「ちなみにベッドの下にいるのはくとぅるふの落とし子たんといって」
「いらんちゅうに!」
どこで売ってるんだそんなの。僕が欲しいぞ。
「蜂蜜入りのリキュール飲みます?」
「まだそのネタで引っ張るのか!?」
相変わらず結城はくすくすと笑っている。
まあそれはともかく。
ちゃぶ台の上にいつのまにか出てきた紅茶をすすりながら、改めて周囲を見回す。
「コレ、自分で全部何買ったとか覚えてるの?」
ちとせは僕の前に座って……と言うか半ば彼等に溺れた状態でにこにこしている。
「勿論です!名前のない子は全部私が名付け親なんですよ~」
「ほう、例えば?」
「あの怖そうなライオンはリチャード一世」
「ふむふむ、歴史ネタか」
「その隣はチャールズ一世、その横はルイ十六世、その隣はコンスタンティヌス十一世」
「歴史教師として言わせて貰うが、そのセンスは最低だな!」
全部首にマフラーとかバンダナとか巻いてるし。可哀相だ。
「こっちの棚はもっと面白いですよぉ。この子はベリヤ、この子はハイドリヒ、この子は泰會」
「悪党ばっかりじゃねえか!もっと可哀相だよ!」
……そういえば、あの抱き枕はなんていうんだろう?一番大事と言うんだから、当然名前があるのだろう。
一ヶ月の展示を終え、今は安息の地、彼の居場所であるベッドの上にまします巨大なクマ。
「あの子は、ルドルフ」
「――それにも由来があるのか?」
「わたしが最初にお母様から買ってもらったテディベアの名前なんだ」
ふむ、思い出の品の名前か。ではこの子は二代目と。では初代はどんな人(というかぬいぐるみ)だったのだろうか。
「ちなみにその子の友達にはラインハルトという子がいて」
「はいはい、で、その子は世界的な歌手になったんだろ?」
あれはいい話だったなあ。
それはそうと。
「――その子は、今は?」
ちとせは首をふる。
「なくしちゃったんだ。だいぶ前に」
あっさり、そう答えた。
「だからあの子は、その代わり。いえ、子どもみたいなものかも」
「でも、だからこそ」
ちとせの声のトーンが、少し低くなった。
「私は……あの子が大事なんだよ」
何かが引っかかる。
……代わりの、子ども。
「ボクもちとせのことが大好きさ!」
突然、何処かから声が聞こえた。
……あれ?今……まるでルドルフが喋ったような……?
まさかね。でも……声がちとせと全然、違う?
「マイクでも入ってるの?この枕」
「いえ?ただの抱き枕ですよ?」
「腹話術?」
そんな特技があるとは初耳だ。
「……違いますよ?彼等が喋ってるんです」
「――え?」
――突然。僕の頭の中で警報が鳴った。
これ以上は、聞くべきでは、ない。
教師、滝沢司は。
なのに。聞き返してしまう。
「――どういう、意味?」
彼女は。結城ちとせは。この、僕に。
話し始める。話して、しまう。
「――私が何故、本校から来たか……せんせは知ってる?」
「――ある程度は」
いじめ。無視。孤立。登校拒否。
引継ぎ資料にはそうした理由が記されていた。
しかし。その内容については。
何故、それが起きてしまったのか。
「みんな、おかしいんですよ?」
待て。ちとせは、何を言っている?
「ぬいぐるみが、喋るわけがないって。幻聴だって」
いや。僕は、何を聞いた?何を聞いている?
「私が、おかしいんだ、って――」
彼女は、真っ直ぐに。
「私には、聞こえるのに、さ?」
僕を見て――言った。
「――せんせは、私を、信じてくれる?」
あの日より数日後。
僕は自室で途方にくれていた。
否定肯定いずれでもなく。何を答えることもできずに、彼女を見返してしまった僕に、彼女は何を見たのだろう。
「そうだよね。変なこと言ったよね、私」
「へへ――せんせ、今のはじょーだんだよ。そうだよね。ぬいぐるみがしゃべるわけないよね?何言ってんだろ」
「だから――忘れてね?」
そう言った彼女の表情に、僕は何を感じた?何を見た?
「糞。僕は――大馬鹿だ」
彼女の諦観を。その失望を――いや、乾いた絶望を見たのではなかったか。
それは信じていたものへの裏切られた感情ですらない。
ああ、やっぱり、という、世界に何も期待しない者の溜息ではなかったか。
あれから、授業中に結城にとりたてて変わった点は見られない。
表面上はあくまで円滑で楽しそうで。でも、けして踏み入らない、立ち入らない人間関係。
いや、むしろ、僕と密接に話していたときのほうが、彼女にとっては「変わっていた」期間なのかもしれない。
「だからって――彼女は、それで、いいのか?」
口に出してみる。それは僕自身への問いかけだ。
お前は、彼女を――結城ちとせをこのままにしておいて、いいのか?
「――いいわけがない」
だがしかし。ならばこの僕、滝沢司に何ができるのか?
彼女に何をしてやれるのか?
「――とりあえず、情報がもっと必要だな」
警察犬のような真似は好きじゃない――生徒のプライバシーに関わることなら尚更だ。
だが、そうしなければ、彼女の心の底にたどりつけないなら。
「成程。それでわたしを探していらっしゃったのですか」
三嶋鏡花は先日設置された生徒互助委員会の委員会室にいた。この時間はもう彼女以外は帰っている。
父母の問題により一時は在籍を危ぶまれた彼女であったが、理事長とリーダさんの温情により卒業までこの学院に在籍できることになった。
とはいえそこは理事長、風祭みやびである。ただでは起きない。
まずコレ幸いと彼女を臨時秘書に任命して事務仕事の一部を委任した。おかげで理事長自身も余裕ができたようだ。
同時に理事長個人と生徒たちの意志の疎通をよりスムーズにすべく、以前からあった寮委員の権限を強化し新たに本校系分校系の生徒相互が意見交換を図る場を設けさせた。その委員長として三嶋を抜擢したのである。
ちなみに副委員長は分校の仁礼が選ばれた。まあ当然の選出だろう。
もともと寮委員でもあった三嶋にとっては願ってもない仕事だったし、みやびの秘書として働く時間は正規の給与も支払われるという事で、借金に対する精神的な負担も軽減できる上に将来に向けたスキルも鍛えられるということで文句のあるはずもない。
既に卒業後は学院の職員として、正式にみやびの秘書となることが決まっている、とリーダさんがこっそり教えてくれた。
理事長は相変わらず素直ではないので、三嶋本人には絶対言うな!とかん口令が敷かれているらしいのだが
「バレバレだよね!」
と相沢が笑いながら言っていたのでまあその通りなのだろう。
いずれにせよ、生徒たちの理事長に対する評価も上がったようなのでこの件に関してはめでたしめでたし、だった。
さて、その三嶋に、結城ちとせの事を聞かねばならない。
「結城さんの、本校にいたころのお話ですわね」
寮委員のひとりでもある結城とは表面上は一番親しいはずの彼女。転入時期は三嶋のほうが先だが、一年以上は一緒にいたはずだ。
「わたし、向こうでは違うクラスだったので、お顔を知っている程度でした。ですから――何があったのか詳しくはないのですけど」
「彼女には他人の聞こえないものが聞こえるのだとか、あるいは彼女の家のぬいぐるみには、幽霊が取り付いていて喋るのだとか。
彼女はそれを聞いて、人の秘密を知るのだとか、そういった噂は当時からありました。ちょっとした占い師扱いですね」
――秘密を、守る、人。幽霊。ぬいぐるみ。表面は、合っているようではある。しかし。
「直接の原因は?」
「あまり伝聞と憶測で発言したくはないのですが――」
「憶測でもいい。情報が足りないんだ」
三嶋はふう、と嘆息して続けた。
「先生にならば、教えないわけにもいきませんわね。まあ、話自体はこの世界ではよくあることです」
「本校生には卒業後直ぐ婚約されるような箱入り娘も何人かいますが、その中の一人が結城さんの噂を聞いて言ったのだそうです――わたしが将来婚約する人がどんな人か、教えてもらえるか、と」
「?」
「引っ掛けだったそうです。彼女は実のところ既に婚約予定が決まっていました。名家の御曹司――と言う以外にとりえのない方だったようですけど、彼女としては悪くない人だと思っていたそうなのですよ」
「彼女としては、とんちんかんな答えが返ってくるのを笑うつもりだったのかもしれませんわね――」
「――結果は、違ったんだな」
三嶋は頷く。
「結城さんは放課後、ロッカーからクマの巨大なぬいぐるみを連れてきて彼女の目の前でぬいぐるみに聞いていったそうです」
……ロッカーにいたのか、ルドルフ。
「まあ、彼女としてはそれだけで驚いたでしょうね。ですが、本当に驚くのはそれからでした。話していいのですか、と、結城さんは彼女に確認したそうです。聞きたくない話だと思いますよ、と」
「彼女は、それでも聞いたわけか」
「ええ――結果は明らかでした。御曹司の生年月日から趣味嗜好まで全てが彼女の知るそれと一致したそうです。ですが、話はそれで終わりませんでした。彼女の知らない部分まで、彼女が聞きたくなかったような部分まで――結城さんは、話してしまったのだそうです」
「知らない部分、か」
「はい。彼女はかなり酷く結城さんを罵倒したようです。嘘つき、と。立ち会っていた人は居なかったので、これは廊下からの盗み聞き程度の確度しかありませんが」
「だが――嘘ではなかったんだな」
「結局、彼女の不安は拭えず、帰ってから親に再調査を依頼しました。結果はお察しの通りです。婚約は解消、御曹司はその後麻薬の販売及び使用で逮捕されました。当の彼女は――自殺未遂の後、転校したそうです」
「…………」
「結城さんに対する虐めが始まったのは、それからだったと聞きました」
――ふう、と今度は僕が息をつく。
「今は?ぬいぐるみのことで――三嶋にそういう話をすることはあるか?」
「結城さんが、それに類する話をわたしにしたことはございません。一度も。当然、わたしからもありません」
きっぱりと三嶋は答えた。
「たしかに、わたしも根っこの部分では信用されていないのか、と悲しくなることもございますけど」
口調こそ一抹の寂しさを湛えていたが、そこに結城を恨むようなトーンはない。
「でも、彼女も私の父母のことは聞きませんでしたし、わたしがこうなる前も、こうなってからも変わらず接してくれますし」
親しくても、親しいからこそ、聞くべきでないこともある。
「わたしにとっては、とても大切な友人です。風祭さんや鷹月さん、八乙女さんと同じく――或いは、それ以上に」
「何故?無論みな大切な友人ではあるだろうが――結城は、君にとってどう特別なんだ?」
「日頃から接していれば判ります。結城さんは、自分で信じていない嘘をつけるような方ではありませんもの」
「ですから、彼女がそう思っていた以上、当時の結城さんにはそれが真実だったのでしょう。それを私は信じます」
信頼。それは個々の出来事についてではない。結城ちとせという人間に対する信頼だ。
――なんだ、当然のことじゃないか。
「それに――彼女は、こちらに来た最初の日に」
転入してきた初日。彼女は、どれだけ心細かったろうか。また、受け入れられないことへの恐怖や諦めは、なかったのだろうか。
「寮を案内するわたしに、お友達になりましょうと言ってくれたんですのよ。他の誰よりも先に、わたしに」
そんな彼女が、最初に会ったのが三嶋で。
「あの時、とても心細かったはずの彼女が最初に頼ってくれたのが、他ならぬ自分だったのですから――だから、彼女の気持ちがどう揺れようと、わたしは彼女を信頼しますわ」
「あなたは――わたしを信じてくれたあなたは、正しいと」
自分の下す判断に迷いはなく、恐れることもない。それが三嶋鏡花という少女を支える新たな柱なのだろう。
自分の足で自分を支えなければ、立ち続けることはできないという事を、彼女は級友より早く知った。
そしてだからこそ、同じ環境にある理事長を支えることもできるのだという事も、今の彼女は知っている。
だからこそ、変わらないことで、親友を支えたいのだと。
「三嶋」
「なんでしょう?」
「お前みたいな友人が結城にいるというだけで、僕は嬉しいよ」
「相変わらずお上手ですね、先生?」
三嶋はくすくすと笑った。
「ありがとう。おかげで僕のスタンスが見えた」
「どうなさるおつもりですか?」
「君が信じたように、僕も彼女を信じるよ」
「では、行動開始ですわね。ご武運を、とでもいうべきでしょうか?」
「いいね。クマといえば金太郎、坂田金時かな。まず、ルドルフ君と相撲でもとってみるさ」
「相撲だと行司が必要ですわね。今から理事長にお願いしておきましょうか?」
理事長ならむしろ自分で相撲をとりたがりそうだ。クマと相撲を本当に取れたら驚喜するだろう。
つぶれちゃいそうだけど。
「こないだリーダさんに塩まかれちゃったからなあ」
「では熊のあとはリーダさんですわね」
「それは絶対勝てる気がしないなあ!」
二人で笑いあった。
そうだ。結城。信じてもらえないと諦めるには、まだ早すぎる。
お前には、こんなに素晴らしい友人がいるんだから。
クリスマスも近づいたある日の夜。
僕は作戦を決行した。
扉の前で、左右を確認。人影はない。オールグリーン。
覚悟を決めて、ノックする。
「はいはーい」
いつもの彼女の声がする。
「滝沢だ。話があるんだが」
「……え?せんせ?ちょちょっと待って待って!」
慌てふためく結城。当然だ。不意打ちを狙ったのだから。
扉が細く開けられ、結城の顔が覗く。もう寝間着に着替えていたらしい。上にドテラを羽織っている当たり、以外と庶民的だ。
「どしたのせんせ?こんな時間に」
「良かったら、入れてくれないか?大事な話なんだ」
「……わたしはいいですけど、せんせ、ちょっとモンダイじゃない?坂水先生とかに見つかったらヤバイよ?」
「そう思ったらここをもう少し開けてくれ」
「――どうぞ」
眼をぱちくりさせた後、彼女は諦めて僕を部屋に入れた。
「緑茶しかないですけどいいですか?珍しいよね。せんせが私の部屋に来るなんて」
彼女は前回と同じくちゃぶ台を掘り出してその前に僕を導くと、湯のみを二つおいた。
「ありがとう。そうだな、あの時以来だ」
――結城は無言だ。笑っているとも、忌避しているともつかない、微妙な表情。
さて、戦闘開始だ。……僕は、踏み込む。
「結城、卒院後の進路は決まっているか?」
「え?わたし?うーん、お父さんの仕事手伝おうかなって……漠然とですけど。それが?」
「結城。真面目な話だが」
「はい?」
「僕 と 結 婚 し て く れ」
「…………はい?」
文字通り、目が点。
「ええええええええええええええええええ!!」
絶叫は部屋の防音限界を試すかのごとき音量で響いた。
「マジですかマジですかせんせ……あたま大丈夫?何言ってるかわかってる?」
「僕は本気だ。卒院したらすぐ結婚しよう。本当なら今すぐ結婚したいぐらいだ」
「ええええ……あ……」
両手を挙げて固まっていた結城は、ややあって手を降ろし、溜息をついた。
「――あのね、せんせ?」
上目遣いに、僕を見やる。
何か、可哀相な人と思われてるっぽい……
まあそうだよなあ。
いきなり教師に求婚されたらそりゃ引くよなあ。
しかし、これは策略の一環なのだ。
「一時の気の迷いで、人生最大の決定を簡単に決めちゃってはいけないとわたしは思うんだ」
「迷いではない」
そう。迷いはない。彼女のためにできることを考えたとき。
今、こうする必要があった。
「でもでも、わたしもまだ未成年だし、せんせは学院の教師だしその」
「だから、君の保護者とも話させて欲しい」
「せんせは私の話聞いてるのかな!大体……その……突然すぎるし」
結城は茶に口をつけた後やや荒くちゃぶ台に置いた。だいぶ呆れた口調だが……ハナから嫌というわけでもないらしい。
嬉しいような申し訳ないような。
「保護者といっても……お父さんは忙しいし、お母さんはずっと海外だし」
それでも話についてきてはくれる所が彼女のいいところだな。
しかしながら、僕はここで彼女に爆弾を投下しなくてはいけない。
そう――彼女の秘密を砕く爆弾を。
「違う。君にはもう一人いるだろう。ずっと君を見守ってきた、保護者が」
「――せんせ?」
「――ルドルフと、話させてほしい」
……その瞬間、結城ちとせの眼は、僕の眼を正面から捉えた。
同時に僕も、彼女の眼を――そしてその内に隠された綻びを捕捉した。
「――何、いってるの?せんせ。私言ったじゃない?ぬいぐるみが話すわけないじゃない、って」
結城の声は、わずかに震えていた。
僕や三嶋でなければ、分からない程度に……しかし確実に。
「その前に、君は僕に言ったはずだ。『私を、信じてくれるよね』と」
――そうだ。僕はだから、その時告げられなかった返事を今しよう。
「僕は――君を、信じる。だから、きみの知るルドルフと、話をさせてくれ」
結城は、一瞬きつい眼で僕を睨むと、がたんと席を立った。
無言でベッドから、ルドルフを抱き上げる。
そして口を引き結んだまま、ルドルフ君をちゃぶ台の自分のいたところに連れてきて鎮座させると、自分はそのままベッドに入ってしまった。
「……私はふて寝してるから、彼とは勝手に話してください」
毛布を頭からかぶって、ごろりと壁のほうを向いてしまう。
自分でふて寝っていうなよ。
しかし。ここからが本当の勝負だ。
向き直り……僕が何か言おうとしたとき、それは始まった。
「――正式に挨拶するのは初めてだな。ルドルフ・シュミットだ。お見知りおきを」
既に相手は土俵に上っていた。
タイミング的にも何もかも完璧に、目の前のぬいぐるみが喋っているようにしか聞こえなかった。
声質に、結城ちとせを思わせるものは何処にもない。完全な成人男子の声だ。
僕はベッドのちとせを見る。
彼女はこちらに顔を向けない。すでに眠ってしまったのかどうかもわからない。
分からないがしかし、なんというか……彼女が喋っている、という気配は一切なかった。しかし……それでも。
「ボイスチェンジャーや録音ではないよ。私が話すときは、あくまでちとせの声帯を借りている」
……やはり、そうなのか。
「ただし、彼女はそれを認識していない。故に、外見からは彼女は一切喋っているように見えないはずだ」
「……どういうことだい?」
「私が彼女の声などを借りているとき、彼女の認識においては時間は停止している。知覚はブランクなく次の時間に引き継がれる」
「時間が停止しているが故に、彼女の心が『わたしが肉体に与える信号』に反応することはない。彼女の行動があくまで自然なのはそのせいだ」
「――君は、何処に居るんだ?ちとせの中なのか」
「そうともいえるし、そうでないともいえる。滝沢司先生、貴方は数論には詳しいか?」
「歴史がらみの事件なら多少は」
数学の発展史は人類の進歩に密接に結びついているから、ある程度の知識は僕も持っているが。
「『ヒルベルトのホテル』という概念を知っているかね?」
「――確か、無限に部屋の存在するホテルを考えたとき、どのように客を泊めたらいいか、みたいな命題を扱ったものだったと記憶してるけどな」
「大枠で結構。命題にあまり意味はない。しごく大雑把に表現するなら、ちとせも私もそのホテルの一部屋の住人だということだ。ただし、住人同士が顔を合わせる事はけしてない。なぜなら、個々の住まう部屋はそれぞれ無限に離れているからだ。故に、ちとせはホテルのオーナーでもありながら、わたしが同じホテルの住人であることを普段は意識しない……精神科医に言わせれば、『あえて気づこうとしない』というところだろうがね」
「個々といったな。君以外にも……いるのか?」
「先日ちとせと貴方の前で無粋な叫びをあげたのは私の名を騙った別のぬいぐるみだ。おしゃべりの愉快犯、わたしとは相性のよくないウッドペッカーのシェイマス。今はオーナーの怒りを買って奥に押し込められているがね」
「……道理で、口調が違うと思ったよ。だが、愉快犯というのは?」
「ガス抜きのために自分の尻に火をつける馬鹿な奴と言ってもいい。我らがオーナーは、たまに露悪的になるのだよ。貴方に秘密を語ってしまった時、彼女の中にはいくつかの感情が渦巻いていた。ぶっちゃけてしまいたい気持ち、隠しておきたい気持ち。認めて欲しい気持ち。否定して欲しい気持ち。彼女自身が口に出すことなく、あるいは気づくことすらない感情を、私やシェイマスのような存在は代弁してしまう。自動的にね」
「彼女はあの時、君の言葉だと認識していたようだが」
「彼女自身も、シェイマスが出てきてしまったことにあの時は混乱していた。なぜ今しゃべる!空気読め!と後でシェイマスが罵られていたのは……おっと、これを言ってしまったのは彼女には秘密だよ」
「今も、実は聞こえているんじゃないのか?彼女は……」
「――さて、それは私の口からは言えないね。あとで彼女に聞くといい。私に聞きたいのは、別のことだろう?」
「ああ……結城の、過去のことだ。君が知る、全ての原因を」
わずかな沈黙の後。ルドルフは語り始めた。
「結城家の家族仲は、けして悪くはなかった。一人娘を父は溺愛していたし、キャリアウーマンの母も同様だ。多忙ゆえ夫婦が全員そろって過ごす時間はけして多くはなかったが、幼いちとせも、それを受け入れるだけの強さは持っていた」
「だが、だからと言って、たまに帰ってきた母親と過ごす時間が嬉しくないはずはない」
「そして、母が仕事に急いで出るからと焦っていたときでも、それを見送ることに躊躇いもあろうはずがない」
そうだろう?とルドルフは同意を求める。
「――それゆえに、周りが見えなくなることも。焦って、玄関から飛び出すことも、責められることではない。そうだろう?」
再び、同意。しかし、とルドルフは続けた。
「しかし、そう……発進させようとした車の前に、ぬいぐるみを抱えた娘がいきなり飛び出してきたら、母親がパニックになるのも無理はない。これも、責められはしない。――そうだろう?」
「――それは」
「――母は、ブレーキを踏んだつもりだったそうだ。新品の履きなれない靴だったのも災いしたらしい。アクセルを踏んでしまって……さらにパニックに陥った」
「ぬいぐるみが飛び散るのを見て、ようやく我に返ったそうだ――その時に『死んだ』のが、初代ルドルフというわけだよ」
「それで?彼女は……ちとせは?」
「幸い、彼女にたいした怪我はなかった。頭をやや強く打っていたがね。ゆえに彼女は思ってしまった」
「ルドルフが、身代わりになってくれた、守ってくれた、とね――我が前任者ながら大したものだと思うよ」
皮肉に聞こえた。
「新たに母が買い与えたのがこの私……つまり私はルドルフニ世というわけだ。ちとせの中ではどうもあまり区別がないようだが」
しかし、ちとせの傷は直ったが、それを境に父と母の間に入った亀裂は直らなかった。
事故当時、父はかなり酷く母に当たったらしい。娘に対する溺愛の裏返しではあったのだろうが、
おかげでただでさえ罪悪感に苛まれていた母親はすっかり参ってしまったのだそうだ。
ノイローゼで入院してしまい、離婚寸前までいったらしいが最終的には別居という事に落ち着いた。
「海外を飛び回る美術商という仕事上、いずれにしても彼等は離れて暮らすことが多かった。表面上は今までと変わりない、仲睦まじい夫婦のままだが――ここ数年、家族が一堂に会したことはない」
さて、とルドルフは続ける。あくまで淡々と、自らの主人を、そして保護者として見守ってきた対象を。
「ちとせは思ってしまった……自分の不注意が、家族を壊してしまった、とね」
さて、そこで――何があったか、私が語るのは難しい。気がついたら、最初に私が、そしてぬいぐるみが増えるごとに別の存在が――例えばシェイマスのような、が生まれていた」
「精密検査では、脳には一切異常が無かった。ちとせが密かに自分で検査を受けた結果だ。しかし」
「恐らく、事故の際脳に衝撃を受けたことで、何らかのスイッチが入ったのだろうと、我々は考えている」
「ちとせ自身は、どう感じているんだ?その――君たちが次々に現れたことについて」
「――解っては、居るのだと思う。ぬいぐるみは喋らない、ということはね」
「しかし、彼女は、それを自分の狂気と捕らえるのではなく――ありのままを受容することを選んだ」
「仕方ないともいえる。よくある多重人格と違い、彼女は我々の思考を逐一把握しているわけではない。無意識のうちに、彼女の意志が我々に影響を与えているのは間違いないが、彼女自身はそれを結果でしか知りえない――故に制御もできない」
「――君たちは、本当の意味で、そこに住んでいるんだな」
「少なくとも私は、そう考えている。一つの人格の重なり合った別形態ではなく、独立した意思として私は結城ちとせのヒルベルト・ホテルに住んでいるのだよ」
「その――虐めの原因になったという占いについてだが」
「簡単なことさ。意思の中に詮索好きが多かったというだけの話だ。本校時代なら、ネットでも探偵でも使えば情報収集など難しくはない。ちとせが知らない間に、ホテルの住人の一人が、予めクラスメイトの情報集めをしていたということだよ」
「――しかし」
確かに、御曹司のスキャンダルは、興信所が再調査すればばれる程度のことだったわけで。
「私が考えるに――占いをちとせがはじめた時点で、そうした防御的な行動が既に始まっていたのではないかと思う」
「ホテルの住人が、ちとせが占いで失敗するのを避けようと――自発的に情報収集した、と?」
「それが結果的に裏目に出たのだから皮肉としか言いようがないがね。最も、こちらに来てからはちとせは占いに手を出していない。まあ、ネット環境もないこの寮では、我らが住人もサポート出来ないだろうから結果的には幸いというところだね」
そう結んで最後に、ルドルフ2世は結論を僕に告げた。
「まあ、そういうわけで、ちとせの認識に関する限り、彼女は嘘はついていないのさ。医者はまた違った事を言うだろうがね」
「それで僕にとっては充分だ」
そう。彼女が先に進むためには。
ルドルフがこれを僕に語ったということ自体が、彼女の無意識を、僕に示してくれているのだから。
「さて、私が質問する番だ」
「保護者として問おう――君は、結城ちとせのどこに惹かれたというのかね?教え子に懸想するとは教師失格だとは思わないかね」
「ふむ、教師失格といわれれば甘んじて受けよう。……だが、そうだな。簡単に言えば――彼女が自分を信じていないように見えたから、かな」
「ふむ?」
「僕は彼女を信じたかった。彼女に自分を嘘つきなんて卑下してもらいたくはなかった。信じて欲しいことがあるなら、それを受け止めてやりたかった」
「彼女が君にそれを望んでいると思うのかね?」
「僕じゃなくても出来るかもしれない。誰かがいつか彼女の心を開いてくれるのかもしれない。でも、僕は今ここにいて」
彼女のために、何か出来ないかと考えている。
「ならば、する事はひとつだろう?教師であっても、ただの男でも、だ」
――ぬいぐるみであるルドルフのの顔が、わずかに笑ったように見えたのは錯覚だろうか?
「――私が言うのもなんだが、難しい子ではある。君に好感を持っているのはまあ疑いないとしてもね。これを私が言うのも奇妙ではあるが、だとしてもすぐ結婚というのは現実的ではないと思わないかね?」
「それは大丈夫だ」
「――なぜ?」
「ぶっちゃけると、ちとせと今結婚させてくれ、というのは嘘だ」
「なん?」
「君を引っ張りださなきゃいけなかったので、一番インパクトのある台詞を選んだ。ちとせ本人が呆れるくらいのね」
「……成程。は、はは……これはおかしい!あの時以来、こんなのは初めてだ……はははっ!」
ぬいぐるみが、笑っている――ように見える。……僕も、だいぶやられているのかもしれない。
「ならば、私は一旦去ろう。恐らくオーナーが、大層君に言いたいことがあるだろうだからな!予測を聞きたいかね?」
「君たちに聞くのはフェアじゃないな。ちとせの口から、直接聞くさ」
「それで良い。結果は彼女のみぞ知る――だ。せいぜい罵倒されることだな――滝沢司!」
幻聴か。
――君は最高に楽しい男だよ。
と、最後にルドルフが言ったような気がした。
三嶋よ――どうやら、難敵との相撲に勝てたようだ。相手は自ら土俵を降りた。
後は、お姫様だけだ。さて――
「嘘なのかよっ!」
ルドルフの言葉――その残響が消えると同時に、ちとせが飛び起きた。
「ふふふ……いい度胸だよね先生!乙女を弄んでさ」
びし、と司に指をつきつける。その眼は怒りか悲しみか羞恥か、いずれとも知れぬ感情に彩られていた。
「弄んでなんかないぞ」
僕が反論すると指差していた手があっさりと力なく下がった。溜息をついて彼女は続ける。
「ふう……分かったでしょせんせ?私、嘘つきなんだよ?」
「なぜそう言い切る?」
吐き捨てるように、結城は答えた。
「自分に、嘘をついてる。どうせそう思ってるでしょ。病気なのを、ごまかしてるだけだって」
最初のきっかけはルドルフが言ったとおり。事故の後の、父母の喧嘩。それが引金になったのだという。
――お母さんとお父さんが私のせいで、喧嘩してる。
悪かったのは、私なのに。
不注意だった私が、悪いのに。
自分で、自分の家族を壊してしまったのに。
「私は、ルドルフに言ったの。誰か、私の懺悔を、後悔を、聞いてください、って。私の泣き言を、憎しみを――嬉しいことを、聞いてください、って。――そしたらみんなが現れてくれた。聞いてくれた。そういうこと」
「でも――それは嘘だよね?お医者さんはたぶん言うよ。わたしは多重人格です、って」
「説明できる心のヤマイ、だって」
そこにいるのは……泣いているお姫様。
だが――幸いにも僕は、彼女を泣き止ませる言葉を知っている。
だから躊躇わず踏み込もう。最後の一歩を。
「結城。君はこういったね。『私は嘘つきです』先生から質問だ。これは正しいか、それとも嘘か?」
「せんせ……?」
「これは嘘つきのパラドックスといってね。答えは……そんなことは、証明できやしない、だ」
「どうして?」
「だってそうだろう?正しいなら、君は嘘をついている。故に嘘つきというのは嘘だということになる。嘘なら、『私』は嘘つきではないことになる。だけど最初に嘘としたのなら、『私』は嘘をついたのでなければならないはずだ。つまり、結果として、私は嘘つきです、と言う人が嘘つきか正しいかなんてのは、解らないってことさ」
「――でも、でも」
――人は君の本当も嘘も、どちらも正しく信じることができる。だからこそ精神科医は、けして現実に勝てないのだ。
「だから、僕は君を信じる。君がありたいと願う現実を。そうなりたいと願う未来を」
ルドルフが何処に住んでいようと関係ない。
「僕は君と話す。ルドルフと話した。それで君を信じるには十分だ」
――だから結城、お前は何に怯えることもない。何を恐れることもない。何を後悔することもない。
君が父と母を愛している。それだけで、君は最初から許されているんだから。
「私は……母さんを壊したり、してないの?自殺を図った彼女を……壊さなかったの?」
「壊れたのは君だけのせいじゃない。君の手が何かをなしたとしても、君はもう報いを充分に受けた」
「そんなの……そんなの楽天的すぎるよ」
「――人が犯す罪の全てが永遠に許されないのなら、世界は一日ごとに滅んでなきゃいけないはずだ。僕が君を許す――君を認める。君を信じる。それじゃ足りないか」
「――せんせ」
「今すぐ結婚したい、と言うのは嘘だ。だが、君が卒院してから以降は嘘にする気はないぞ」
「……なんで、そこまでするの?何で、私なの?」
「男が可愛い女の子に惚れるのに理由がいるか」
「……聞きたいよ、わたしは」
「そうだな。結城ちとせは……可愛い嘘つきだから、かな」
「――滝沢先生は、嘘つきだよ」
「証明できるか?」
「さっきの話だと、できないんだよね。……じゃあ」
結城の眼が悪戯っぽく光った。だいぶ、いつもの彼女に戻ってきたような気がする。
「せんせが、自分で嘘つきでないって証明して」
「――どうすれば、君は納得する?」
「そだね」
くすり、と、笑って。
やっと、笑って、言った。
「――私が眼を閉じている間に、せんせがすること。それが気に入ったら、納得するかも」
「僕が出来ることは、一つしかないぞ」
「――それで、いいよ」
――そうして。
僕、滝沢司と結城ちとせは。
初めてのキスを、交したのだった。
P.S.
「ルドルフとは毎日キスしてたけど」
そうなのか。
なんとなく落ち込む僕。
「でもでも」
あわあわ、と手を振ってから。
僕の首に彼女はそっと手を回す。
「あったかいキスは……初めてだよ」
結城は、ちとせは、僕を見上げて、
「せんせぇ」
「何だ?」
「――大好き」
「結城ちとせの部屋」end.